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巳の刻
「巳の刻〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
巳の刻の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「蘭学事始」より 著者:菊池寛
「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」 四人は、折々その言葉を口ずさみながら、
巳の刻から申《さる》の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考....
「護持院原の敵討」より 著者:森鴎外
を懇望するものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすの
巳の刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方....
「川中島合戦」より 著者:菊池寛
吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の刻より
巳の刻までは武田方の勝なり」と云っているが、これは一番正当な批評かも知れない。そ....
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
人を入れらる。忠常御剣を賜はり、人穴に入る、今日幕下に帰参せずに畢んぬ。(中略)
巳の刻に、仁田四郎忠常、人穴より出でて帰参す、往還一日一夜を経たり、此洞狭うして....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは
巳の刻のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
た。来たる英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、
巳の刻より諸人通行留めの事とある。左右横道の木戸は締め切りの事とある。往来筋に住....
「渋江抽斎」より 著者:森鴎外
十二文、盛掛が十六文するとき、一板二分二朱であった。 朝餉の畢る比には、藩邸で
巳の刻の大鼓が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つこ....
「中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
打ち叩け。打ち殺しても差し支えない」 門卒らはかしこまって待っていると、翌日の
巳の刻を過ぎて午の刻になった頃、二人の尼僧が東の方角の百歩ほどの所から歩いて来た....
「堺事件」より 著者:森鴎外
久し振の面会をした。 五月二十日に、南会所から九人のものに呼出状が来た。本人は
巳の刻、実父又は実子のあるものは、その実父、実子も
巳の刻半に出頭すべしと云うので....
「雪の宿り」より 著者:神西清
十九日でございました。明け方から凄まじい南の風が吹き荒れておりましたが、その朝の
巳の刻なかばに、お屋敷のすぐ南、武者の小路の上の方に火の手があがったのでございま....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
日|戌の刻から始めて、四月八日|午の刻まで七十日あまりで終り、再度は六月十二日|
巳の刻から七月二十五日
巳の刻まで四十日余で成就した。『古今集』全部の註釈を常縁自....
「三国志」より 著者:吉川英治
ずか兵五百をあずけて、後陣のほうへまわしておいた。 両軍対陣のまま、辰の刻から
巳の刻の頃おいまで、ただひたひたと河波の音を聞くばかりで、戦端はひらかれなかった....
「三国志」より 著者:吉川英治
「辰の刻です」 番兵は、一刻ごとに、孫策へ告げにきた。しばらくするとまた、 「
巳の刻となりました」 と、報らせてくる。 日時計は、秦の始皇帝が、陣中で用い....
「三国志」より 著者:吉川英治
張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまい、ただ一騎となって、
巳の刻から未の刻の頃まで、なお戦っていた。 そして遂に、一方の血路を斬りひらき....
「三国志」より 著者:吉川英治
がよく見えた。 「徐晃、行け」 曹操はさらに増援を送った。 このとき、すでに
巳の刻は過ぎていた。漢水の彼方、今朝から固唾をのんでいた蜀の趙雲は、 「――まだ....