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延享
「延享〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
延享の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「忠義」より 著者:芥川竜之介
ず》は、漸く十人にすぎない。それが、とり乱した気色もなく、つれ立って、門を出た。
延享《えんきょう》四年三月の末である。門の外では、生暖《なまあたたか》い風が、桜....
「政談月の鏡」より 著者:三遊亭円朝
ると、依田豐前守は、依田和泉守といい町奉行の時分は僅《わずか》な間でございます、
延享《えんきょう》元年の六月十一日|御目附《おめつけ》から致して町奉行役を仰付け....
「恩讐の彼方に」より 著者:菊池寛
第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、
延享《えんきょう》三年九月十日の夜であった。この夜も、石工どもはことごとく小屋に....
「傾城買虎之巻」より 著者:直木三十五
―手紙などは全く偽物であって、暇に任せて拵えたものらしいが、この瀬川の話なども、
延享から宝暦へかけての、江戸時代でも一番退屈であった盛りの時に、欠伸除《あくびよ....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
で公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。 これはこれ、有徳院様お代替りの
延享四年十月十五日のことでございました。 御承知の通り、国主大名が殿中に於て非....
「丹下左膳」より 著者:林不忘
のかみ》、お畳奉行《たたみぶぎょう》別所播磨守《べっしょはりまのかみ》、くだって
延享《えんきょう》元年――と、なかなかやかましいものであります。
が、これらは....
「江戸芸術論」より 著者:永井荷風
絵のこととす。柱絵と称する極めて狭長なる板画の様式はフェノロサの研究によれば既に
延享《えんきょう》二年頃鳥居清重の作にその実例を見るといへども実際柱にかけ用ゐし....
「澪標」より 著者:外村繁
享保十一年には江戸に入っている。同年、文庫蔵を建築、元文二年には本宅を改築、更に
延享三年には隠居所を新築している。宝暦三年、名古屋では定宿を取り、その商売形式は....
「粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)」より 著者:三遊亭円朝
けれども、これは余り好い心持ではございません。然ういう華美な装を致しまするのを、
延享年中の流行言葉で伽羅な装と云い、華美な装をする人を伽羅な人と云い、ちょっと様....
「随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
方がそう仰っしゃるのだ。これは一般の常識だから抗議は一切いわない。 なるほど、
延享三年版の戯作本に、花筏巌流島というのが出ている。なかなか趣向は愉快に組んであ....
「エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
合わさしめるという程の有様であった。丹後舞鶴領行永村ほか十二箇村のエタの如きは、
延享元年に至って始めて全体を通じてのエタ頭を定められたのであって、それ迄は各自村....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
改当歳已上云云」とあるのは、所謂役人村たる旧六条のみで、出村を除いた数か。不審。
延享元年六月の調べには九百五十九人とある。 また云う、右の旧六条村の戸口数の中....