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「延暦〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

延暦の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
らぶる手を人間の上に加えなかった。ややもすれば神輿《じんよ》を振り立てて暴れ出す延暦寺の山法師どもも、この頃はおとなしく斎《とき》の味噌汁をすすって経を読んでい....
神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
を吹き出した。四時煙りを上げていた。 天応元年七月六日。富士山下及、木葉|凋落。延暦十九年六月六日。富士|山顛自焼。 延暦二十一年正月八日。昼夜|炬燎、砂礫如。....
旗本退屈男」より 著者:佐々木味津三
それでした。ほかに批難すべきところはなかったが、極度の天台宗信者で、京都|叡山の延暦寺を以て海内第一の霊場と独り決めに決めている程、狂的に近い信仰を捧げていたた....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
地震があって、噴出した鑠石は本栖、※の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにな....
ドナウ源流行」より 著者:斎藤茂吉
僕はたまたま「霊仙大徳の死」を思って自ら慰めたのであった。霊仙は、興福寺の僧で、延暦二十二三年ごろ最澄、空海と共に入唐した。或はもっと早く宝亀年中だという考証も....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
代らした意である。また支那でも印度から木綿の入ったのは宋の末だというし、我国では延暦十八年に崑崙人(印度人)が三河に漂着したが、其舟に木綿の種があったのを栽培し....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
盛んなりしものと見え、天応元年五月、正六位上佐伯部三国に外従五位下を授け、さらに延暦二年六月に、姓佐伯|沼田連を賜わりしことあり。彼は当時右京に貫せしも、沼田連....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
である。彼はまた中尊寺以外にも多く造寺・造塔の功徳を積み、在世三十余年の間、わが延暦・園城・東大・興福等の諸大寺を始めとして、遠くシナの天台山にまで、多くの砂金....
「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
存していたに過ぎないものであった。そしてその隼人の方は遠からず同化の実を挙げて、延暦の頃にはすでにその本国たる薩隅両国にも他と同様の田制を実施しうるに至り、いつ....
くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
久都比売神社|一に久具神社と云い、大水上神の児久々都比古命・久々都比売命を祀ると延暦儀式帳にある。倭姫世記にも久求小野に久求社を定め賜うたとある場所で、今の度会....
本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
ったもの千二百五十七人という様な、大醜態を演じた程でありました。かくて桓武天皇の延暦年間に、有名な坂上田村麿が出て参りますまで、二十数年間にわたった奥州の大乱と....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
頃|神護景雲三年に、浮宕の百姓二千五百余人を陸奥国伊治城に置くとか、平安朝の初め延暦二十一年に、駿河・甲斐以東諸国の浪人四千余人を、陸奥国胆沢城に配置すなどいう....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
末は不幸にしてこれを明らかにする史料が不備であるが、祇園の犬神人の方は、この社が延暦寺に属していたが為に、その活躍も目立たしく、史料も比較的豊富に遺されている。....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
かもしれないが、なおこれは再考を要するのものとしてしばらく保留したい。 東寺や延暦寺のような諸大寺には、なお祇園に犬神人があり、興福東大諸寺に唱門師があったよ....
放免考」より 著者:喜田貞吉
式でその種類も一つではなく、また時代によってその指すところも変ってはいるが、既に延暦二年の勅にも、雑色の輩浮宕の類になりにける者なり」とあるによって知られる。こ....