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「建久〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

建久の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
十二支考」より 著者:南方熊楠
基成は泰衡《やすひら》らの外祖父で義経戦死の節自殺した。『東鑑《あずまかがみ》』建久四年六月十八日故曾我十郎が妾(大磯の虎除髪せずといえども黒衣|袈裟《けさ》を....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
ていた。この寺は佐々木盛綱と大野九郎兵衛との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久のむかし此の磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位である....
不尽の高根」より 著者:小島烏水
選り取って、大外河を姓とする芙蓉閣なる宿屋へ、昼飯を食べに入った。この宿の中には建久館と称する七百三十年も前の古家が、取いれられている趣であるが、玄関には登山用....
植物一日一題」より 著者:牧野富太郎
うずい》法師所栽の菩提樹枝(果枝ならん)を取り商船に付し筑前香椎神祠に植ゆ、実に建久元年なり、同六年天台山菩提樹を分ちて南都東大寺に栽ゆとあり」と書いてある。今....
かたき討雑感」より 著者:岡本綺堂
なる。 それからまた、文治五年九月に奥州の泰衡がほろびると、その翌年、すなわち建久元年の二月に、泰衡の遺臣|大河次郎重任(あるいは兼任という)が兵を出羽に挙げ....
磯部の若葉」より 著者:岡本綺堂
ていた。この寺は佐々木盛綱と大野九郎兵衛との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久のむかしこの磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位である....
法然行伝」より 著者:中里介山
像は後に支那から渡った処のものに違わなかったということである。 生年六十六歳、建久九年正月七日|別時念仏《べちじねんぶつ》の間には特に様々の異相奇瑞が現われた....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
たしたものである。もちろんこのほかにもまだ俊成の歌は散在している。 そのほか、建久八年八十四歳のとき、式子内親王の仰せによって、歌について論じ、『万葉』から『....
頼朝の最後」より 著者:田中貢太郎
建久九年十二月、右大将家には、相模川の橋供養の結縁に臨んだが、その帰途馬から落ち....
私本太平記」より 著者:吉川英治
の名のおこりらしい。 幕府の初期には、これも柳営内にあったのである。ところが、建久の年、熊谷直実と久下直光とが、領地ざかいの争いで、対決したさい、裁判の不当に....
私本太平記」より 著者:吉川英治
下に宣伝する一大儀式となっていたといってもよい。 尊氏、直義の行列は、すべて、建久元年に行われた源頼朝の大仏供養を模している。 先駆の一番には、山名時氏がは....
山の人生」より 著者:柳田国男
教を求めんとしたことも、想像にかたくないのであった。すなわちただ一歩を進むれば、建久八年の橘兼仲のごとく、専門の行者となって一代を風靡し、もしくは近世の野州|古....
春の大方山」より 著者:木暮理太郎
行くと駒止桜がある、下馬桜とも称しているらしい。そこは白糸村の内で狩宿と呼ばれ、建久四年五月に源頼朝が富士の巻狩を行った時に、旅館を構えた遺蹟であると伝えられて....