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「建暦〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

建暦の前後の文節・文章を表示しています。該当する7件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
鉄面皮」より 著者:太宰治
こに至っては、筆を投じて顔を覆わざるを得ないではないか。 (前略)そうして、この建暦元年には、ようやく十二歳になられ、その時の別当|定暁僧都さまの御室に於いて落....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
月にも大地震があって、地が裂け、所所の門扉|築地が倒れた。古老はこれを見て、去る建暦三年和田佐衛門尉義盛が叛逆を起したころにも、こんな大地震があったと噂しあった....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
それは私の思い過しかも知れない。 社宝の大般若経というのは、ここの子孫の一人が建暦元年から承久二年までの十年間に下野足利の鶏足寺で書写したもので、例年春三月に....
法然行伝」より 著者:中里介山
。 かくて勝尾寺の隠居も最早四カ年になった。京都への出入がまだ許されない。処が建暦元年夏の頃上皇が八幡宮に御幸のあった時一人の倡妓があって、王者の徳失のことを....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
を京へ送って添削を求めた。これが定家と実朝との関係のはじめである。 二十二歳、建暦三年十一月、定家は家重代の宝であった『万葉集』を献じたので、実朝は非常に喜ん....
随筆 新平家」より 著者:吉川英治
朝比奈三郎義秀であったとする説だ。これが、再婚説である。もっとも、再婚はしたが、建暦二年の和田合戦のとき後の良人にも子にも別れ、彼女は信濃の故山に帰って、九十幾....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
に含まれているのを見遁してはならぬ。これについて問題の寛元二年に先だつ三十余年の建暦三年に、栂尾の高僧明恵上人が、その著『摧邪輪』の奥に「非人高弁上」と書いたの....