» 廿

「廿〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

廿の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
羅生門の後に」より 著者:芥川竜之介
この集にはいっている短篇は、「羅生門」「貉《むじな》」「忠義」を除いて、大抵過去一年間――数え年にして、自分が廿五歳の時に書いたものである。そうして半《なかば》は、自分たちが経営している雑誌....
疑惑」より 著者:芥川竜之介
見ますと、表紙に家が倒れたり火事が始ったりしている画があって、そこへ二行に「明治廿四年十一月三十日発行、十月廿八日震災記聞」と大きく刷ってあるのでございます。そ....
ひょっとこ」より 著者:芥川竜之介
釜の下へ入れて焼くやら、大騒ぎをした事があるそうである。 それからまた、そこに廿《はたち》までいる間に店の勘定をごまかして、遊びに行った事が度々あるが、その頃....
成長が生んだ私の恋愛破綻」より 著者:伊藤野枝
重くなりました。 私は時々自分の年を考えてみます。二人目の子供を生んだ時、私は廿一だったのです。まだほんとうの勉強ざかりの年なんです。私は情なくなりました。何....
鴛鴦鏡」より 著者:岡本綺堂
事にすむはずがありません。去年の暮に、冬坡のおふくろが風邪をひいて、冬至の日から廿六日頃まで一週間ほど寝込んだことがあります。そのときに染吉とお照とが見舞に来て....
西瓜」より 著者:岡本綺堂
知れない。黴臭いような紙の匂いが何だか昔なつかしいようにも感じられた。一冊は半紙廿枚綴りで、七冊百四十枚、それに御家流で丹念に細かく書かれているのであるから、全....
」より 著者:岡本綺堂
、もう、大騒ぎさ。ここに哀れをとどめたのは柳橋の小雛という芸者だ。なんでも明けて廿一とかいう話だったが、この芸者は京橋の福井という紙屋の旦那と亀戸の初卯詣に出か....
」より 著者:岡本綺堂
草の門跡前に屋敷をかまえている桃井弥十郎という旗本の次男で弥三郎という男、ことし廿三歳になるが然るべき養子さきもないので、いまだに親や兄の厄介になってぶらぶらし....
魚妖」より 著者:岡本綺堂
出したのであった。彼の父は伊勢の亀山藩の家臣で下谷の屋敷内に住んでいたが、先月の廿二日に七十二歳の長寿で死んだ。彼はその次男で、遠い以前から鈴木家の養子となって....
秋の筑波山」より 著者:大町桂月
一里卅二町とあれどこの頃新しく処々に立てられたる木標の示す所によれば、男体山まで廿一町廿三間、男体山より女体山まで八町、女体山より廿五町半、往復都合|凡そ五十五....
仲々死なぬ彼奴」より 著者:海野十三
喜助君なら、今でも一緒に抱いて寝てやってもよいと思っているのであった。今年|廿二歳になって、たいへん大人びてきた喜助君の方でも、抱かれることには大いに賛成で....
小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
あるまい。彼のもとに隠まわれて、しばらく世の成り行きを窺おうと思っていると、二月廿五日の夜半に、甲斐国から使いが来て、思いもよらない報告をもたらした。師冬は上野....
遠野の奇聞」より 著者:泉鏡花
かの老媼茶話に、 奥州会津|諏訪の宮に朱の盤という恐しき化物ありける。或暮年の頃廿五六なる若侍一|人、諏訪の前を通りけるに常々化物あるよし聞及び、心すごく思いけ....
死神」より 著者:岡崎雪声
ぎるので、これ等は誠によいことだと自分は思う。 明治十一年のこと、当時私は未だ廿五歳の青年であったが、東京へ上京して四年後で、芝の花園橋の直ぐ近所の鈴木某氏の....
魯迅さん」より 著者:内山完造
した時に書いて下さった書がありました。それは今上海の記念館にかかっておりますが、廿年居上海毎日見中華 有病不求薬無聊纔読書 一滴臉就変所※頭漸多 怱而下野南無阿....