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「弘化〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

弘化の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
うのこうのというのは大抵この河獺の奴のいたずらですよ。これもその河獺のお話です」弘化四年の九月のことで、秋の雨の二、三日ふりつづいた暗い晩であった。夜ももう五ツ....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
しくは申し上げませんが、日本の植疱瘡はなんでも文政頃から始まったとか云うことで、弘化四年に佐賀の鍋島侯がその御子息に植疱瘡をしたというのが大評判でした。それから....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
きの方が信心参りをしたものです。いや、その信心に関係のあることではないのですが、弘化二年正月の二十四日、きょうは亀戸《かめいど》の鷽替《うそか》えだというので、....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
の御祖師様へ参詣に行って、くたびれ足を引き摺って四谷の大木戸まで帰りついたのは、弘化四年六月なかばの夕方であった。赤坂から堀の内へ通うには別に近道がないでもなか....
仇討三態」より 著者:菊池寛
郎が十五歳の秋だった。伯父の留二郎は、四十二歳であった。 三人は文政から天保、弘化、嘉永、安政と、三十年間、日本国中を探し回った。幸太郎が安政四年に、陸奥国牡....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
、その点を乞いに来る者も相当あって、俳諧の宗匠としては先ず人なみに暮らしていた。弘化三年十一月のなかばである。時雨という題で一句ほしいような陰った日の午すぎに、....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
ているのでございます」 と、かれは思い切ったように云った。 加賀屋の嫁のお元は弘化二年|巳年の生まれと云っているが、実は弘化三年|午年の生まれであるとお鉄は初....
八ヶ嶽の魔神」より 著者:国枝史郎
杳として知ることが出来なかった。 時勢はズンズン移って行った。 天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治とな....
百物語」より 著者:岡本綺堂
今から八十年ほどの昔――と言いかけて、O君は自分でも笑い出した。いや、もっと遠い昔になるのかも知れない。なんでも弘化元年とか二年とかの九月、上州の或る大名の城内に起った出来事である。 秋の夜....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
た。 もっともそれには理由があるので、お染の産れたその同じ日に――詳細く云えば弘化元年八月十日のことであるが、藤九郎の女房のお半というのが、やはり女の児を産ん....
夢のお七」より 著者:岡本綺堂
遙に来りて、形の如く営みけるといへり。云々。」 この寺記は同寺第二十世の住職が弘化二年三月に書き残したもので、蜀山人の「一話一言」よりも六十年余の後である。同....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
るという。はじめの名は玉太郎で、それから福助となり、芝翫とあらためたのであるが、弘化の初年から慶応の末年にいたる二十余年間は、実にかれが人気の絶頂で、名人といわ....
春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
として、たびたび転封の経験を有し、この山形では明和四年に武州川越から移ってより、弘化二年上州館林に転じて、水野越前守と入れ交るまで、わずか八十年にも足らぬほどの....
特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
、その第二回目の享保十一年の調べが二千六百五十四万八千九百九十八人、第二十二回目弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅かに三十五万八千六百二十....
春水と三馬」より 著者:桑木厳翼
水は天保十四年に歿し、而して天保は又十四年で終って居る。即ち天保十五年は改元して弘化元年となって居るから、此に大なる疑問が存する訳である。此点に就て既に新村氏の....