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弘安
「弘安〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
弘安の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「最終戦争論」より 著者:石原莞爾
ら末法に遣わされた釈尊の使者本化上行だという自覚を公表せられ、日本の大国難である
弘安の役の終った翌年に亡くなられました。 そして日蓮聖人は将来に対する重大な予....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
は、これも在来は日本武尊の御鎧《おんよろい》と伝えられたもので、実は後宇多天皇の
弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。 さればこの山の神....
「天災と国防」より 著者:寺田寅彦
ったとしたらその結果はどうなったであろうか、想像するだけでも恐ろしいことである。
弘安の昔と昭和の今日とでは世の中が一変していることを忘れてはならないのである。 ....
「颱風雑俎」より 著者:寺田寅彦
が及ぼした効果は普通に考えられているよりも深刻なものがありはしないかと思われる。
弘安四年に日本に襲来した蒙古の軍船が折からの颱風のために覆没してそのために国難を....
「学生と先哲」より 著者:倉田百三
故にや、此の七八年が間、年々に衰病起り候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年(
弘安四年)は正月より其の気分出来して、既に一期をはりになりぬべし。其の上齢すでに....
「戦争と気象学」より 著者:寺田寅彦
の誇張であるかもしれないが、こういう例は史上に珍しくはあるまい。同じ筆法で行けば
弘安四年六月三十日から七月一日へかけて玄界灘を通過した低気圧は我邦の存亡に多大の....
「飛騨の怪談」より 著者:岡本綺堂
* * * * 今から六百余年|前の
弘安年中に、元の蒙古の大軍が我が九州に襲って来た。北條時宗|邀え撃って大いに之を....
「くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
みあって、その語と傀儡子との関係には及んでいないのである。古く鎌倉時代、おそらく
弘安頃の著と考えらるる塵袋にも、「傀儡トカキテククツトヨム二字心如何」との見出し....
「福沢諭吉」より 著者:服部之総
のだがなかに盛られた自由主義的開国論は構成完備している。文久二年渡欧の船中で松木
弘安《まつきこうあん》(後の寺島宗則《てらじまむねのり》)らに向い「とても幕府の....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
・冷泉という。さて阿仏の訴訟は容易に決まらない中、阿仏は鎌倉で歿し、引きつづいて
弘安九年為氏六十五で薨ずると、二条家では嫡子為世がつづいて争い、漸く二十七年たっ....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
ッタボウシというともある。「延喜式」に、 。 とある濫僧を、ロウソウと読んで、
弘安頃の「塵袋」には、エタの仲間に入れてある。自分の郷里阿波の南方では、身なりの....
「「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
」にもあるので察せられる。おそらくその使用は、鎌倉時代から始まったものであろう。
弘安年間のものと認められた「塵袋」に、「キヨメ」を「エタ」というたことについて、....
「牛捨場馬捨場」より 著者:喜田貞吉
であるが、鎌倉時代にはその濫僧をも通例ただちに屠者すなわちエタと呼んだとの事が、
弘安頃の著と認められる「塵袋」に見えている。しかしこの称呼は実は鎌倉時代になって....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
であるか、また果して悪人であるかは今の問題ではないが、この書が鎌倉時代もおそらく
弘安頃のものとして、日蓮とほぼ時を同じゅうすることによって、日蓮が自ら繰り返して....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
は杜若の造花を付けた姿が示されているのである。兼好法師がその「徒然草」に、「建治
弘安の頃は祭の放免のつけ物に、異様なる紺の布四五端にて馬を作りて、尾髪には灯心を....