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「弘徽殿〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

弘徽殿の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
源氏物語」より 著者:紫式部
「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」 などと言って、右大臣の娘の弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子....
源氏物語」より 著者:紫式部
たちも愁眉《しゅうび》を開いた。なお生きようとする自分の心は未練で恥ずかしいが、弘徽殿《こきでん》あたりで言う詛《のろ》いの言葉が伝えられている時に自分が死んで....
源氏物語」より 著者:紫式部
桜の宴があった。玉座の左右に中宮《ちゅうぐう》と皇太子の御見物の室が設けられた。弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》は藤壺《ふじつぼ》の宮が中宮になっておいでにな....
源氏物語」より 著者:紫式部
なった院と中宮は普通の家の夫婦のように暮らしておいでになるのである。前《さき》の弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》である新皇太后はねたましく思召《おぼしめ》すの....
源氏物語」より 著者:紫式部
まれ》に参内になる時は梅壺《うめつぼ》の御殿を宿所に決めておいでになった。それで弘徽殿《こきでん》が尚侍の曹司《ぞうし》になっていた。隣の登花殿などは長く捨てら....
源氏物語」より 著者:紫式部
姫君に源氏はどんな態度を取ろうとするのであろうと心苦しく思召した。中納言の姫君は弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》と呼ばれていた。太政大臣の猶子《ゆうし》になっ....
源氏物語」より 著者:紫式部
となしいおおような、そして小柄な若々しい人であったから自然に愛をお感じになった。弘徽殿《こきでん》の女御は早くからおそばに上がっていたからその人を睦《むつ》まじ....
源氏物語」より 著者:紫式部
き》の立つことは一方に偏したことであると批難を加える者もあった。そうした人たちは弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》がだれよりも早く後宮《こうきゅう》にはいった人....
源氏物語」より 著者:紫式部
ばん適したことでしょう。御所には中宮が特殊な尊貴な存在でいらっしゃいますし、また弘徽殿の女御という寵姫もおありになるのですから、どんなにお気に入りましてもそのお....
源氏物語」より 著者:紫式部
なやかな時代であった。あまりよい身分でない更衣などは多くも出ていなかった。中宮、弘徽殿の女御、この王女御、左大臣の娘の女御などが後宮の女性である。そのほかに中納....
「平家物語」ぬきほ(言文一致訳)」より 著者:作者不詳
夜の契さえ今は中々うらめしくて彼の物語にある、光源氏の大将の朧月夜の内侍のかみ、弘徽殿のほそどのも私の身の上にひきくらべて一しお哀深う思う。まどろめば夢に見ん、....
人生における離合について」より 著者:倉田百三
して殉死された有名な事蹟がのっている。また花山法皇は御年十八歳のとき最愛の女御|弘徽殿の死にあわれ、青春失恋の深き傷みより翌年出家せられ、花山寺にて終生堅固な仏....
反省の文学源氏物語」より 著者:折口信夫
臣の長女が源氏の父君桐壺帝よりも、年上の女性である。早くから宮廷に這入っていて、弘徽殿女御と言われた。帝が、後に源氏の生母桐壺更衣を余り寵愛なさるので、自尊心を....
私本太平記」より 著者:吉川英治
きに、こけ転んで、天皇の御帳の内へ、かくかくと密奏した。 天皇はその夜、み后の弘徽殿におやすみだったが、あわてて女房衣を被かせ給い、ほかの一殿へお避けになられ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
った。 いつか、都を出てから二十日に近い。もし内裏なら、今ごろは、藤の花の匂う弘徽殿ノ渡殿にこの黒髪もさやかであろうと思うにつけ、妃たちは、粘い汚れ髪に触って....