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御徒
「御徒〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
御徒の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「忠義」より 著者:芥川竜之介
、御番所《ごばんしょ》から下部屋《しもべや》へ来る途中で発見した。そこで、すぐに
御徒目付《おかちめつけ》へ知らせる。
御徒目付からは、
御徒組頭|久下善兵衛《くげぜ....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
じゃねえかッ。不審は井上の金八が証拠に見せたあの祝儀袋だ。たしかに、ゆうべ野郎も
御徒歩供《おかちとも》になってお屋敷に詰めていたかどうか、はええところ飛んでいっ....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
なんだゆえ、ご処分にも会わず浪人いたしまして、今はここからあまり遠くもない下谷|
御徒町《おかちまち》に、ささやかな町道場とやらを開いてとのことでござりまするが、....
「特許多腕人間方式」より 著者:海野十三
於テ、義手或ハ義足ガ公然製造使用セラレタルコトハ、例エバ明治三十九年東京市下谷区
御徒町仁愛堂発行ノ「義手義足型録」ニ依リテ公知ノ事実ナリ、仍リテ本願ハ特許法第一....
「海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
け、焼けて筒抜けとなったという。 上富士前から神明町ヘ。浅草橋駅、上野は駅から
御徒町駅へかけて左側が全部なくなり、右方は日活館を残して、丸万や翠松園やみんな焼....
「敵討札所の霊験」より 著者:三遊亭円朝
養子武田重二郎は傳助と云う下男を連れて、小津軽の屋敷へ行って、両国を渡って帰り、
御徒町へ掛ると、 重「大分傳助道が濘るのう」 傳「先程降りましたが宜い塩梅に帰り....
「白金之絵図」より 著者:泉鏡花
、御叱を蒙ったで、恐縮いたすにつけても、前後|申後れましてござるが、老人は下谷|
御徒士町に借宅します、萩原与五郎と申して未熟な狂言師でござる。」と名告る。 「は....
「松と藤芸妓の替紋」より 著者:三遊亭円朝
請出されて、蠣殻町に居たのだが、越して新らしく此の頃建った家を借りて、それが今|
御徒町一丁目の十六番地へ葉茶屋を出しました、松山園とかいう暖簾を出して、亭主の方....
「黒百合」より 著者:泉鏡花
裏長屋へ越して、祖父は着馴れぬ半纏被に身を窶して、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から
御徒町辺の古道具屋を見歩いたが、いずれも高直で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に....
「鐘ヶ淵」より 著者:岡本綺堂
の近習だけで、ほかのお供の者はみな木母寺の方に控えている。大原右之助は二十二歳で
御徒士組の一人としてきょうのお供に加わって来ていた。かれは午飯の弁当を食ってしま....
「離魂病」より 著者:岡本綺堂
、それから本文に取りかかることにする。 時は六月はじめの夕方である。西岡は下谷
御徒町の親戚をたずねて、その帰り途に何かの買物をするつもりで御成道を通りかかると....
「西瓜」より 著者:岡本綺堂
しい。日も暮れ六つに近い頃に、ひとりの中間体の若い男が風呂敷づつみを抱えて、下谷
御徒町辺を通りかかった。そこには某藩侯の辻番所がある。これも単に某藩侯とのみ記し....
「異妖編」より 著者:岡本綺堂
その暴風雨の最も猛烈をきわめている二十五日の夜の四つ(午後十時)過ぎである。下谷
御徒町に住んでいる諸住伊四郎という
御徒士組の侍が、よんどころない用向きの帰り路に....
「月の夜がたり」より 著者:岡本綺堂
。 八月末の残暑の強い日に、かれは今日もてくてくあるきで、汗をふきながら、下谷
御徒町の或る横町を通ると、狭い路地の入口に「この奥にかし家」という札がななめに貼....
「私の履歴書」より 著者:井上貞治郎
月の雨さえ冷たい。くちびるをかんでこみ上げてくるものをこらえ、ただ歩いた。そして
御徒町二丁目までくると、中屋という店ののき先に、「男入用」と書いたかまぼこ板がぶ....