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恩顧
「恩顧〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
恩顧の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
のである。師道はこれに対して故障をいうべきようもなかった。まして、自分は年来その
恩顧《おんこ》を受けている。玉藻を彼に推薦したのも自分である。これらの関係上、師....
「三浦右衛門の最後」より 著者:菊池寛
ている。義元の時よりは二、三倍の誅求があるのも、皆彼のためだといわれている。義元
恩顧《よしもとおんこ》の忠臣が続々と退転したのも彼のためだといわれている。今川家....
「島原の乱」より 著者:菊池寛
豊臣の制令に服従した。 徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の
恩顧を想って敢て徳川幕府に仕うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったの....
「鳥羽伏見の戦」より 著者:菊池寛
長石川|厚狭介などを斃したが、淀城の城主稲葉家は、例の春日の局の血縁で、幕府には
恩顧深き家柄であるに拘らず、朝廷に帰順の意を表して、幕軍が淀城に拠るを許さず、ま....
「大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろうと思う。それまで、豊臣
恩顧の大名の死ぬのを待っていたなど云うが、しかし家康だって神様じゃないし、自分が....
「真田幸村」より 著者:菊池寛
と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。 一体真田幸村が、豊臣家
恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うの....
「天主閣の音」より 著者:国枝史郎
十一月から、同十六年十二月迄、約二ケ年の短日月で、造り上げた所の城であるが、豊公
恩顧の二十余大名六百三十九万石に課し、金に糸目をつけさせずに、築城させたものであ....
「天草四郎の妖術」より 著者:国枝史郎
からの」 「が、此度が打ち止めであろうぞ。後詰めする味方があるではなし」 「豊臣
恩顧の大名共、屈起するかと思ったが是だけはちと当てが外れた」 「そうは問屋が卸ろ....
「首頂戴」より 著者:国枝史郎
らせにやったのさ。そこへ行くとお前は少し違う。野武士時代にはあばれもしたろうが、
恩顧を蒙った目上の者を、殺したことはないのだからな。そうして俺に至っては、人を殺....
「地虫」より 著者:小栗虫太郎
好しで、人に瞞されやすく、自分の行為に、善悪の識別というものを持たない。彼女は、
恩顧をうけた三伝を裏切って、彼が来たことを他の三人に内通したのであったが、その後....
「夢は呼び交す」より 著者:蒲原有明
た結果かとも思われる。 そんな因縁から、この家の主人は、あとあとまでも伯爵家の
恩顧を蒙りもし、また伯爵家のために、生涯骨身を惜しまずに誠意を尽した。 この主....
「正雪の遺書」より 著者:国枝史郎
とは出来ないであろうか? 二月幕兵を防ぎ得たとしたら、四国九州に残っている、豊臣
恩顧の大名達が、旗を動かさないものでもない。それらの大名と呼応したならば面白い賭....
「血ぬられた懐刀」より 著者:国枝史郎
面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、片桐且元というような人さえ、幸蔵主には
恩顧を蒙り、一目も二目も置いていた。秀吉さえも智謀を愛して、裏面の政治に関与させ....
「名人地獄」より 著者:国枝史郎
てな?」 と彼は首を傾げた。 役付いていた昔から、碩翁様には一方ならず、彼は
恩顧を蒙っていた。役目を引いた今日でも、二人は仲のよい碁敵であった。 「わざわざ....
「三十年前の島田沼南」より 著者:内田魯庵
てこういう人を外らさない共通の如才なさがあるものだが、世事に馴れない青年や先輩の
恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリに独りで定め....