悲田院[語句情報] » 悲田院

「悲田院〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

悲田院の前後の文節・文章を表示しています。該当する10件の作品を表示しています。
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宮本武蔵」より 著者:吉川英治
の世の盛りを偲ばせる元林院|址とか、光明皇后が浴舎を建てて千人の垢を去りたもうた悲田院|施薬院の址などもあるが、それも今は、苔と雑草の中からわずかに当時の石が顔....
私本太平記」より 著者:吉川英治
密集している。そしてここにも散所民の生態がそっくりあった。しかし施薬院、療病院、悲田院など、彼らのための施設は、荒れはてていた。 もともと、聖徳太子の草創にな....
私本太平記」より 著者:吉川英治
。――が、それはまだ宵のくちのことで、――あわてて彼もその本陣を三条北の河原から悲田院址へかけて押しすすめていた。 そして偵察を放つと。 義貞は、自己の陣地....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
は考えなくなっているのが多いのであります。京都付近でこれまで小屋者と言われていた悲田院の部落のものの中で、今日なお特殊部落として認められているものは、僅かに柳原....
特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
百五十九人とある。 また云う、右の旧六条村の戸口数の中には、約四十戸二百人の旧悲田院の徒を交えているそうであるが、大勢に関せぬから、そのままに存しておいた。 ....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
記して、 者也。 とある。この事は「塩尻」(「古事類苑」引)にも、 (これまた悲田院の部類、刑罰の時紙籏に罪状姓名を筆とる者)毎日二条城外の塵穢を掃除するも、....
編輯雑感」より 著者:喜田貞吉
する。当時自分は京都の縄手三条下る処に寓居しておった。したがってその付近にある旧悲田院の部落や、旧エタの頭村と言われた天部部落を通過する機会が多く、自然にその現....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
時代にも、落伍者が多く京都や、江戸、大坂等の、大都会に集まった。それを京都では、悲田院の長屋に収容して、その中で年寄と称する役員を置いて取り締らせたが、これをす....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
田郷ももと東大寺奴婢の居地だとある。また興福寺の北門を悲田門といい、その前四町は悲田院すなわち病苦孤独の所在であると『山階寺流記』に見えている(『坊目考』引)。....
融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
も明瞭に説明しうるものは、徳川時代における諸国のお救い小屋の被収容者、特に京都の悲田院の被収容者であります。 今日ならば自ら生活しえぬような気の毒な人々は、こ....