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「慶安〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

慶安の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
つのかみ》に移されて、台所料として幕府から一万石を給され、晩年をこともなく過し、慶安《けいあん》三年九月十日に薨《こう》じた。享年五十六歳であった。 忠直卿の....
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
」 その幽光院というのは元和《げんな》元年の建立《こんりゅう》にかかるもので、慶安四年の由比《ゆい》正雪騒動のときまで前後三十年間ほど関八州一円に名をうたわれ....
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
す、東叡山《とうえいざん》寛永寺というただいまの勅号は、このときより少しくあとの慶安年中に賜わったものですから、当時は開山天海僧正の名をとって、俗に天海寺と呼び....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
まして、絵馬は横幅が二尺四五寸、丈が一尺三四寸で、一羽の白い鷹をかき、そのそばに慶安二二と書いてあります。慶安二二は即ち慶安四年で、由井正雪、丸橋忠弥らが謀叛の....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
は悪びれずに答えた。「わたくしは十四年前から当寺の住職に直りました。この高源寺は慶安年中の開基で、相当の由緒もある寺でござりますが、先代からの借財がよほど残って....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
早い雲脚までがなんとなく彼の心にかかった。 最初、今度の軍役に使用される人馬は慶安度軍役の半減という幕府の命令ではあったが、それでも前年の五月に将軍が進発され....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
年四月には陸前、磐城、武蔵、同四年五月には、また武蔵、相模に大きな地震があった。慶安には元年四月に相模、武蔵、山城、同二年二月に伊予、安芸、山城、その六月に武蔵....
赤格子九郎右衛門」より 著者:国枝史郎
派なものです。千石以上の旗本の先ず御隠居という所です。が夫れにしてはお供が無い。慶安四年の卯月の陽がカンカン当たっている真昼の事で自由に身動きが出来ないほど浅草....
鵞湖仙人」より 著者:国枝史郎
。 茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。 周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。 信濃なる衣ヶ崎に来てみれば ....
紅白縮緬組」より 著者:国枝史郎
害したのであろう? 古い当時の記録を見ると、次のようなことが記されてある。 「慶安の巨魁由井正雪の孫、幕府に怨恨を含む所あり、市中に出でて婦女子を害す。追窮さ....
銅銭会事変」より 著者:国枝史郎
花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の社稷に、大鉄槌を下そうとした、それにも増し....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
大きな地下室が出来ていた。 この屋敷が建てられたのは、正保年間のことであって、慶安謀反の一方の将軍、金井半兵衛正国がずっと住んでいたということであった。で、恐....
正雪の遺書」より 著者:国枝史郎
1 丸橋忠弥召捕りのために、時の町奉行|石谷左近将監が与力同心三百人を率いて彼の邸へ向かったのは、慶安四年七月二十二日の丑刻を過ぎた頃であった。 染帷に鞣革の襷、伯耆安綱の大刀....
酒渇記」より 著者:佐藤垢石
分からないから、慶長頃の酒がどんなに安かったものか判断がつかない。二代将軍秀忠の慶安年中は、いまから二百九十年ばかり前になる。そのころ、江戸鍛冶橋御門前南隅に小....
鴎外の思い出」より 著者:小金井喜美子
代々仕えた典医でした。亀井家は元和三年に津和野に封ぜられてから十二代になり、森は慶安から天保年間までで十一代になりました。祖父はもと佐々田|綱浄といった人で、若....