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承久
「承久〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
承久の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「最終戦争論」より 著者:石原莞爾
末法に入ってから二百二十年ばかり過ぎたときに仏の予言によって日本に、しかもそれが
承久の乱、即ち日本が未曽有の国体の大難に際会したときに、お母さんの胎内に受胎され....
「鍛冶の母」より 著者:田中貢太郎
一 土佐の国の東端、阿波の国境に近い処に野根山と云う大きな山があって、昔は土佐から阿波に往く街道になっていた。
承久の乱後土佐へ遷御せられた後土御門上皇も、この山中で大雪に苦しまれたと云うこと....
「東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
の継続になる、公卿化したとはいいながら、将軍およびその臣隷は武人に相違ない。もし
承久の事変に宮方が勝利を得たと仮定しても、それは足利将軍が京都から号令した有様と....
「学生と先哲」より 著者:倉田百三
条安房国海辺|旃陀羅が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天皇の、
承久四年二月十六日に、安房ノ国|長狭郡東条に貫名重忠を父とし、梅菊を母として生ま....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
い過しかも知れない。 社宝の大般若経というのは、ここの子孫の一人が建暦元年から
承久二年までの十年間に下野足利の鶏足寺で書写したもので、例年春三月に転読するのだ....
「『七面鳥』と『忘れ褌』」より 著者:佐藤垢石
った。 ――将軍より上奏する所の条約一条、朝廷においてご聴許ない時は、大老らは
承久の故事を追い、鳳輦を海島に遷し奉るか、さもなくば主上を伊勢に遷し両宮の祭主と....
「法然行伝」より 著者:中里介山
仏に疑いが起ってもだえていたが、或る夜の夢に法然を見て往生の安心が出来たという。
承久三年嵯峨の清涼寺が焼けたのをこの聖が造営した。その西隣りの往生院もこの聖が建....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
係の台本たるべき性質のものだったろう。とにかくお手もとの御本は、院のお供をして、
承久乱後|隠岐に移された。院はそれをもとにして、多くの歌を除かれ、遥か歌数の少な....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ので、みなさように口を合わせるのではないかな。思うに、地方の武士どもは、かつての
承久ノ乱なるものを、今もなかなか忘れはおるまい。――あの乱で、宮方へ与した武族は....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
わめたものだが」と、喞つもあり、蒙古襲来の役に、わしの大祖父は、どう働いたとか。
承久ノ乱では、宮方へついたがため、家名を失い、以後はこの通りな半百姓だ――などと....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
他家に監禁される始末――。いらい帝の牢愁のお翳りはいとど濃い。 平家の頃にも、
承久の乱にも、帝王の受難は、二、三にとどまらなかったが、なお幾らかの畏れと、いた....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
宮と、 守護の松田一族。 宮方の主峰は、この二つと観ていいが、さかのぼれば、
承久ノ乱に宮方へついて、いらいうだつのいい大名が受領にあずかって、この地方でもぐ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
れてしまっては、ふたたび帰るにも帰れぬ虚無にとらわれたことでもあろう。――現に、
承久の後鳥羽法皇は、北条義時にやぶれて、この島へ流され、海士郡の配所に十八年間を....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
名も、 刑部ノ少輔時興 と、変えていた。 元々、西園寺家と北条氏とは、遠い
承久の乱いらいの深い因縁がある。当時、関東方について、北条氏に協力したので、それ....
「建国の事情と万世一系の思想」より 著者:津田左右吉
でもある。もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(
承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆えそうとしたりせられたことがありはあっ....