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持明院統
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持明院統の前後の文節・文章を表示しています。該当する11件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
としての漢詩、漢詩と和歌との融合 十一 為家 十二 二条・京極・冷泉三家の分立、
持明院統と大覚寺統、分立の意義、為世歌論の保守主義、為兼歌論の新鮮さ、『玉葉』の....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
など、いわば水に油であったのである。 次に。――もう一つの大きな反後醍醐派は、
持明院統とよぶものだった。 後醍醐は、大覚寺統である。――やがての「南朝」「北....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
戦備のようだという物見の知らせ。……どうやら、さきに諸州へ発した密勅が漏れたか、
持明院統のまたぞろな密告か」 「そ、それや、こうしてはおられん、ここへも」 「も....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
けられたお子なのだ。 その遊義門院は、よほどな美人であったらしい。――おん父は
持明院統の天皇|後深草であり、つまり皇女でおわしたが――後宇多は、大覚寺統のお立....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
身に沁みている。 かつは、彼女の考え方も、 「後醍醐おひとりが、天皇ではない。
持明院統から立たれた光厳帝さまも、ひとしく、まぎれない、天子さまではないか」 ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
らせ、つづいては、院、法皇、東宮、みきさき、女房たちから梶井の二品親王までの――
持明院統のかたがたすべても――りくぞくとして六波羅へ避難してきた。そのため六波羅....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
思っていた。 なにも、彼がこうしたわけではない。後醍醐を追って、あとの帝位に、
持明院統の皇族からおひとりを選び、 この君を と、北条氏がその政略から新帝と....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
はうなずいた。これならうなずける。そして心のうちでよろこんだ。西園寺家をはじめ、
持明院統をとりつぶすには、絶好な機会と、考えられたからだった。 公重は、なお告....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
をまたくりかえしていた。 「ではやはり……」と、尊氏も今は半ばあきらめ顔に。 「
持明院統の後伏見、花園の二法皇から新院(先帝、光厳)の君まで、すべて過日の内裏落....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
輩の讒謗のため、朝敵乱賊などと、一たんの汚名はうけられました。しかしひそかには、
持明院統の御一方から院宣をいただき、あくまで、大君には仕え奉るおこころざしではい....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ではなかったというし、さらには「尊氏とて、皇室を思う心は一つ。ただ現帝に代えて、
持明院統の君を立てて、世を安きにおかんと思うばかり……」と伝えたことばにたいして....