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播磨風土記
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播磨風土記の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「十二支考」より 著者:南方熊楠
件の処を屎褌《くそばかま》という。今樟葉というは屎褌の誑《あやま》りだとあり。『
播磨風土記』に神功《じんぐう》皇后韓国より還《かえ》り上りたもう時、舂米女《いな....
「最古日本の女性生活の根柢」より 著者:折口信夫
を知りませんから」というのである。 おなじ天皇が、日本武尊らの母|印南大郎女(
播磨風土記)の許に行かれた際、大郎女は逃げて逃げて、加古川の川口の印南都麻という....
「「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
伝説を有しないものも多いが、かつて山間に取り遺された先住民存在の伝説は甚だ多い。
播磨風土記には、多可郡の山間に異俗の部落二箇所を挙げてある。吉野山間の国樔人は言....
「火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
れが普通の事であって、一向珍らしくなかったが為と解するのが至当であるかもしれぬ。
播磨風土記|飾磨郡の条に、墓を造って葬り、後其正骨を運び去るなどあるのは、たまた....
「国号の由来」より 著者:喜田貞吉
和と、この邪馬台国なる筑後の山門郡地方とのみならず、肥後にも古く同名の郷があり、
播磨風土記にも同じ名の地が見え、他にも少からず諸々に存在するのである。これについ....
「憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
であって、なお大和吉野の山中に国栖人と呼ばれた異俗が後までも遺っていた様に、また
播磨風土記に同国神崎郡の山中には、奈良朝初めの現実になお異俗が住んでいたとある様....
「本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
より、多少の相違は在ったけれども、はるかに後世まで習俗として行われたものである。
播磨風土記の飾磨《しかま》郡|貽和《いわ》ノ里の条に、雄略朝に尾治連の祖先である....
「山の人生」より 著者:柳田国男
かけて大海の蜃を採って食ったといい、足跡の長さ四十余歩、広さは二十余歩とある。『
播磨風土記』の多可郡の条にも巨人が南海から北海に歩んだと伝えて、その踰ゆる迹処数....