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改元
「改元〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
改元の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「侏儒の言葉」より 著者:芥川竜之介
マアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和
改元の第一日)
又
わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したも....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
久元年一月末のことと御承知下さい。ほんとうを云うと、この年は二月二十八日に文久と
改元のお触れが出たのですから、一月はまだ万延二年のわけですが……。その頃、京橋の....
「姉川合戦」より 著者:菊池寛
、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と
改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であ....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
戦乱の勃発 唯ならぬ雲行きを見て、朝廷は、文正二年三月五日に、兵乱を避ける為め
改元をした。応仁とは、 「|仁之感響」と云う句から菅原|継長が勧進せる所である。....
「連環記」より 著者:幸田露伴
事師ではなかったから、大した事跡は遺さなかった。文筆の業も、在官の時、永観元年の
改元の詔、同二年、封事を上らしめらるるの詔を草したのを首として、二十篇ばかりの文....
「塩原多助一代記」より 著者:三遊亭円朝
来ては食事を致します。多助は此の家に足掛け四年の間奉公して居り、宝暦十三年の六月
改元あって、明和元年と相成り、其の年も暮れ、翌年明和二年十一月廿六日の事でござい....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
いました。「俗に云う孝子と養老の滝が酒になったという話はツクリゴトで、これが養老
改元の発令された真相なのであります。 信濃と美濃へ遷都だとか行幸という目的は、....
「江戸芸術論」より 著者:永井荷風
ん》につきて夙《つと》に色彩の妙技を学び得たり。あたかも好《よ》し宝暦過ぎて明和
改元の翌年浮世絵板刻の技術は鈴木春信並に板木師金六《はんぎしきんろく》の手により....
「葛飾土産」より 著者:永井荷風
しない。しかし概して西洋種の草花の一般によろこび植えられるようになったのは、大正
改元前後のころからではなかろうか。 わたくしが小学生のころには草花といえばまず....
「百花園」より 著者:永井荷風
出た。その時には日は全く暮れて往来《ゆきき》の車にはもう灯がついていた。 昭和
改元の年もわずか二三日を余すばかりの時、偶然の機会はまたもやわたくしをして同臭の....
「放水路」より 著者:永井荷風
は、その後《ご》十余年、重ねてこの水郷《すいごう》に遊ぶことを妨げていたが、昭和
改元の後、五年の冬さえまた早く尽きようとするころであった。或日、深川の町はずれを....
「とと屋禅譚」より 著者:岡本かの子
一 明治も
改元して左程しばらく経たぬ頃、魚河岸に白魚と鮎を専門に商う小笹屋という店があった....
「宝永噴火」より 著者:岡本かの子
それでいて慧鶴も娘もじりじり痩せて行った。 こんなことで元禄十六年も暮れ、翌年
改元して宝永元年の春になった。慧鶴が清水の土地を思い切り、美濃の檜木の瑞雲寺へ入....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
の自筆で、「建暦三年、十二月十八日」と書かれていることである。この年は十二月六日
改元、建保元年となったのだが、恐らく鎌倉でできた原本には、
改元のことが徹底しない....
「春水と三馬」より 著者:桑木厳翼
ある。春水は天保十四年に歿し、而して天保は又十四年で終って居る。即ち天保十五年は
改元して弘化元年となって居るから、此に大なる疑問が存する訳である。此点に就て既に....