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教鞭
「教鞭〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
教鞭の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「錯覚の拷問室」より 著者:佐左木俊郎
不道徳な行為から出発しているのでございます。そのある教師とは、やはり先生の膝下に
教鞭《きょうべん》を執っている吉川訓導なのでございますが、わたしはその理由を詳し....
「新生」より 著者:島崎藤村
学生の口から、その仏蘭西の青年の通っている古い大学こそ往昔《むかし》アベラアルが
教鞭《きょうべん》を執った歴史のある場所であると聞いた時は、全く旧知に邂逅《めぐ....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の
教鞭で背中を引っぱたかれた。癇癪持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃりと食らわすのも....
「支倉事件」より 著者:甲賀三郎
学部を出て更に神学科を修めて、二十七と云う若い女ながらも自宅に日曜学校を開いて、
教鞭を取っていたので、支倉が神学徒の仲間に知られるようになったのも過半は彼女の為....
「分配」より 著者:島崎藤村
の周囲に見いだす著作者たちはと言えば、そのいずれもが新聞社に関係するとか、学校に
教鞭を執るとか、あるいは雑誌の編集にたずさわるとかして、私のように著作一方で立と....
「火星兵団」より 著者:海野十三
に理科を教えていた先生である。一年前に、小学校をよして、大阪へいった。大阪では、
教鞭をとるのではなかった。大阪帝国大学工学部の聴講生となって、さらに勉強をしよう....
「若草物語」より 著者:オルコットルイーザ・メイ
、二女で、この「若草物語」のジョウに作者の面影が出ていますが、文筆の才に恵まれ、
教鞭をとるかたわら、作家志願の精進をつづけ、二十三才のとき、「花物語」という処女....
「一商人として 」より 著者:相馬愛蔵
のお弟子の藤村頴子女史に紹介をもらって行ったのであった。女史は札幌の北星女学校に
教鞭を取っておられたが、私はかねて津田仙氏、安藤太郎氏などの禁酒運動に共鳴して禁....
「三筋町界隈」より 著者:斎藤茂吉
ていた。 明治三十年ごろ『中学新誌』という雑誌が出た。これはやはり開成中学にも
教鞭をとった天野という先生が編輯していたが、その中に、幸田露伴先生の文章が載った....
「縁談」より 著者:佐藤垢石
どちらにいるのですか』 『東京です。女子大の家政科を出まして、青山のある女学校に
教鞭をとっていたのですが、芝のあの山泉男爵さんのお嬢さんが教え子だったので、その....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
彫工会の事務所にまだいましたが、或る日大村西崖氏が見え(氏はその頃京都美術学校に
教鞭を取られていたと記憶す)、弟子を一人御丹精を願いたい。その人はこれこれこうこ....
「明治哲学界の回顧」より 著者:井上哲次郎
のである。それからちょうどその教育勅語の煥発せられた頃より東京大学に教授となって
教鞭を執り、三十三年間継続し、その間、宗教に関しては仏教を中心として比較宗教を講....
「子規居士と余」より 著者:高浜虚子
言っていいのである。それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に
教鞭を取りつつあった夏目漱石氏の寓居に同居し、極堂、愛松、叟柳、狸伴、霽月、不迷....
「漱石氏と私」より 著者:高浜虚子
なって赴任したのであった。私はそれから東京の下宿に帰り、漱石氏は熊本の高等学校に
教鞭をとって、互に暫く無沙汰をして居ったものであろう。此の手紙のうちで漱石氏が褒....
「棚田裁判長の怪死」より 著者:橘外男
たのはどういう意味だったのか? その後間もなく教授も日本へ帰って、相変らず上野で
教鞭を執っていられましたが、職業も違い、社会的立場も異なって、その後|逢ったこと....