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「敦賀〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

敦賀の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
弊履のごとく捨てられ、配所たる豊後国府内《ぶんごのくにふない》に赴かれた。途中、敦賀にて入道され、法名を一|伯《ぱく》と付けられた。時に元和《げんな》九年五月の....
高野聖」より 著者:泉鏡花
つむ》いた。 道連《みちづれ》になった上人《しょうにん》は、名古屋からこの越前敦賀《えちぜんつるが》の旅籠屋《はたごや》に来て、今しがた枕に就いた時まで、私《....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康と共に敦賀表に進発した。 しかも、前年長政に与えたる誓書あるに拘らず、長政に対して一....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
一通の書付を旅の懐から取り出し、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪|飯島村、当時無宿....
人造人間エフ氏」より 著者:海野十三
をついて、なに一つこわれたところのない船体をふしぎそうにながめまわすのであった。敦賀港 そののちは、べつにかわったこともなく、ウラル丸はついにめでたく敦賀の港....
栃の実」より 著者:泉鏡花
である。 その年は八月中旬、近江、越前の国境に凄じい山嘯の洪水があって、いつも敦賀――其処から汽車が通じていた――へ行く順路の、春日野峠を越えて、大良、大日枝....
黒百合」より 著者:泉鏡花
近道だが、船でも陸でも親不知を越さねばならぬからと、大事を取って、大廻に東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。 三十五 湯の谷の神の使だ....
雪のシベリア」より 著者:黒島伝治
なって暫らく衛戍病院で勤務して、それからシベリアへ派遣されたのであった。一緒に、敦賀から汽船に乗って来た同年兵は百人あまりだった。彼等がシベリアへ着くと、それま....
雪霊続記」より 著者:泉鏡花
、北海の荒波の上で起る処のこの吹雪の渦を見た事があります。――一度は、たとえば、敦賀湾でありました――絵にかいた雨竜のぐるぐると輪を巻いて、一条、ゆったりと尾を....
河伯令嬢」より 著者:泉鏡花
、下積に船に積まれて、北海の浪に漾ったのでしょう。けれども、汽車は、越前の三国、敦賀。能登の富来、輪島。越中の氷見、魚津。佐渡。また越後の糸魚川、能生、直江津―....
二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
したのが四十一年の六月十二日であった。十四日にあたかも露西亜から帰着した後藤男を敦賀に迎え、その翌日は米原まで男爵と同車し、随行諸員を遠ざけて意見を交換したそう....
国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
『ナ』行の音と『ラ』行の音とが相転するに至っては、その例ことに多い。『ツヌガ』(敦賀)が『ツルガ』、『イナニ』(稲荷)が『イナリ』、『ツカニ』(束荷)が『ツカリ....
オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
はだれも知っているが、伊藤博文公の出生地なるツカリも同じく「束荷」と書く。越前の敦賀は旧名|角鹿であったと言われ、日向の財部が後世高鍋となっているのも同じ道理で....
古事記」より 著者:太安万侶
入ろうものを。 と歌つて海にはいつて死にました。 氣比《けひ》の大神 ――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。―― かくてタケシウチの宿禰がその太子をお....
四つの都」より 著者:織田作之助
窓をあける。 駅員の声(マイクを通して)「米原。米原。五分間停車、北陸線乗換え、敦賀、直江津、新潟方面行の方は右の階段を登って、三番線の列車にお乗換え願います、....