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文久
「文久〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
文久の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
いつまでも膝にからみ付いている小猫を追いやりながら、老人はしずかに話し出した。
文久二年の秋ももう暮れかかって、芝神明宮の生姜市もきのうで終ったという九月二十二....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
のはなしを始めた。そのうちにこんな話が出て、わたしの手帳に一項の記事をふやした。
文久二年八月十四日の夕方であった。半七がいつもより早く家へ帰って、これから夕飯を....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
くしが遣り損じた懺悔話をしましょう。今かんがえると実にばかばかしいお話ですがね」
文久三年正月の門松も取れて、俗に六日年越しという日の暮れ方に、熊蔵という手先が神....
「青蛙堂鬼談」より 著者:岡本綺堂
当時、一種の催眠術にかかっていたのだろうか。」 第四の女は語る。 わたくしは
文久元年|酉歳の生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解になりま....
「江戸か東京か」より 著者:淡島寒月
吊ってあって、チリン/\の間に「ひやっこい/\」という威勢の好いのです。砂糖のが
文久一枚、白玉が二枚という価でした。まだ浅草橋には見附があって、人の立止るを許さ....
「お住の霊」より 著者:岡本綺堂
これは小生の父が、眼前に見届けたとは申し兼るが、直接にその本人から聞取った一種の怪談で今はむかし
文久の頃の事。その思召で御覧を願う。その頃、麹町霞ヶ関に江原桂助という旗下(これ....
「兜」より 著者:岡本綺堂
も知れないのである。 まずその兜が邦原家に伝わった由来を語らなければならない。
文久二年といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひ....
「経帷子の秘密」より 著者:岡本綺堂
峰は夫にささやいた。 由兵衛もひそかに無事を祈っていた。この年の二月に、年号は
文久と改まったのである。去年の桜田事変以来、世の中はますますおだやかならぬ形勢を....
「くろん坊」より 著者:岡本綺堂
がえったので、それを機会に私もすこしく「黒ん坊」の怪談を語りたい。 江戸末期の
文久二年の秋――わたしの叔父はその当時二十六歳であったが、江戸幕府の命令をうけて....
「蜘蛛の夢」より 著者:岡本綺堂
一 S未亡人は語る。 わたくしは当年七十八歳で、嘉永三年|戌歳の生れでございますから、これからお話をする
文久三年はわたくしが十四の年でございます。むかしの人間はませていたなどと皆さんは....
「あのころ」より 著者:上村松園
そこへ家の丁稚が通り合わしましたので、私はこれ幸いと、丁稚に半紙へ波の模様のある
文久銭を六つならべて描いて、 「これだけ貰って来ておくれ」 とことづけて、やっ....
「画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
六つ並べて、丁稚にこの絵の通りのものを、家から持って来てくれと頼みました。当時の
文久銭は浪の模様がついておりまして、その絵は、
文久銭六つで買えたものだったのです....
「父の怪談」より 著者:岡本綺堂
でしまったということであった。 これは怪談というべきものでは無いかも知れない。
文久元年のことである。わたしの父は富津の台場の固めを申し付けられて出張した。末の....
「鴎外博士の追憶」より 著者:内田魯庵
万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更えたので実は
文久二年であるそうだ。「蛙の説」を『読売』へ寄書したのは大学在学時代で、それから....
「想い出」より 著者:上村松園
ところへ丁度家から丁稚が使いに来ましたので、私はその丁稚に、半紙に波の模様のある
文久銭を六つならべて描き、「これだけもろうてきて」と母にことづけてやりました。こ....