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「文安〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

文安の前後の文節・文章を表示しています。該当する11件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
応仁の乱」より 著者:菊池寛
って来た。此の中、斯波氏先ず衰え、次で畠山氏も凋落した。独り残るは細川氏であり、文安二年には細川勝元が管領になって居る。 一方山名氏は、新興勢力であって、持豊....
蕎麦の味と食い方問題」より 著者:村井政善
島通りを右へ廻った辺)に「二六蕎麦」という名物、つまり十二文でなみのところより四文安いが、またその安いざつなところに一種の味があって、蕎麦食い達はよく出かけたも....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
おうとの計画が実行され、その一つとして、多年十八文で売り込んでいる道庵よりは、三文安の十五文を看板にして、年も道庵よりはグット若い橋庵《きょうあん》先生というの....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
ために、いかばかり肝胆《かんたん》を砕いているかは御存じの通り、江戸表に於ては三文安の喬庵《きょうあん》を押立て、十八文の看板を横取りしようとたくんだが、残念な....
くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
閑の地に佗住居して、市中の汚物掃除などを行い、それによって衣食の資を得るもので、文安の※嚢抄にはこの河原者をエッタ(穢多)とある。やはり傀儡子すなわち漂泊民の徒....
山の人生」より 著者:柳田国男
かは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳のころに、長寿の尼が若狭から遣ってきて、毎日多くの市民に拝まれたこと....
エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
かった時代にも、五山の僧侶などは甚だしくこれを忌がったものである。「臥雲日件録」文安三年十二月二十一日条に、 。 とある。この文安三年という年は、偶然にもかの....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
るが、昔はエタと非人との区別も判然せず、エタの事を河原者とも呼んでいた。室町時代文安元年の「下学集」に、 とある。当時に於いては屠児すなわち獣肉を扱う者をも、....
「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
年を経た貞治の頃には、その字がすでに広く用いられる事になり、さらに五六十年を経た文安の「※と書いた様である)。近くはアイヌに同情して、これを研究せんとする学者達....
旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
ある。そしてそのキヨメは実に鎌倉時代においてエタと呼ばれていたのだ。 室町時代文安三年に出来た「※と呼ばれ、室町時代にはそれを訛って俗間にサンカモノと呼んでい....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
、後世ではまず唱門(師)と書くのが普通であるらしい。 これを唱門師と書くのは、文安の『※嚢抄』を引くようだけれども、これはやはり年代を示すべく原本によるを可と....