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「文治〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

文治の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
業平文治漂流奇談」より 著者:三遊亭円朝
序 むかしおとこありけるという好男子に由縁《ゆかり》ありはらの業平文治《なりひらぶんじ》がお話はいざ言問わんまでもなく鄙《ひな》にも知られ都鳥の其....
俊寛」より 著者:菊池寛
ばると九|国に下り、そこの便船を求めて、硫黄商人の船に乗り、鬼界ヶ島へ来たのは、文治二年の如月半ばのことだった。 寿永四年に、平家の一門はことごとく西海の藻屑....
桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
義元が文にかって居た将とすれば、信長は寧ろ真の武将であった。戦国争乱の時には文治派より武断派の方が勝を制するのは無理のない話である。信長、印形を造らせた事が....
運命」より 著者:幸田露伴
李景隆は大兵を率いて燕王を伐たんと北上す。帝は猶北方憂うるに足らずとして意を文治に専らにし、儒臣|方孝孺等と周官の法度を討論して日を送る、此間に於て監察御史....
寄席と芝居と」より 著者:岡本綺堂
題にならなかった。このほかにも、円朝物で脚光を浴びたものには「舞扇恨の刃」「業平文治漂流奇談」「緑林門松竹」等々、更に数種にのぼるのであるが、小さい芝居は一々こ....
後の業平文治」より 著者:三遊亭円朝
物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗て師匠の圓朝が喝采を博しました業平文治の後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺を新作いたしました事は皆様が....
些細な事件」より 著者:井上紅梅
れに因《よ》って時々苦痛を押し切り、つとめて自分自身に想到しようとする。幾年来の文治と武力は、わたしが幼少の時読み馴れた「子曰詩云《しのたまわくしにいう》」のよ....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
はもちろん、鎌倉・室町ころにおいても、常に奥羽のみをもって蝦夷の本国と解したり。文治五年の鎌倉の「掟」に、「出羽・陸奥に於ては夷の地たるによりて、度々の新制にも....
かたき討雑感」より 著者:岡本綺堂
、十郎五郎の兄弟よりも工藤の方が先手であるという理窟にもなる。 それからまた、文治五年九月に奥州の泰衡がほろびると、その翌年、すなわち建久元年の二月に、泰衡の....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
は同じく四十余宇で、禅坊は五百余宇の多きに達していたのである。されば『吾妻鏡』(文治五年九月二十二日条)にも、基衡は果福父に軼ぎ、奥羽両国を管領すとある。彼は九....
明治演劇年表」より 著者:岡本綺堂
て、おのれは古河黙阿弥と改む。時に六十六歳。 ○十二月、柳亭燕枝、春風亭柳枝、桂文治らが、春木座にて落語家芝居を催す。案外に成績の好かりしために、その後もしばし....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
著『新古今時代』を参考していただければ幸である。 『千載集』の奏覧は後鳥羽天皇の文治三年(一一八七)で、撰者藤原俊成は七十四歳であった。 一体俊成の出た御子左....
仏教人生読本」より 著者:岡本かの子
って、今日に至るもなお、重要な指針の書となっているのであります。 太子さまは、文治一方のお方かと申しますと、なかなかそうではありません。時によっては勇猛鬼神を....
春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
て鎮守府将軍となり、清原氏についで奥羽二州に勢力を振うこととなったのである。後に文治五年の源頼朝の奥州征伐は、その名は藤原氏が弟義経を容隠したにあったとはいえ、....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
添えて、何々坊と呼ぶこともできてきた。けだしそれは坊の語の転用である。『吾妻鏡』文治二年三月の条に、 。―― また、同書文治元年十一月の条にも、 之悪僧也。 ....