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日本武
「日本武〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
日本武の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「最終戦争論」より 著者:石原莞爾
ーツやら見境いがつかないくらいである。武器がすばらしい芸術品となったことなどにも
日本武力の特質が現われている。 東亜大陸に於ては漢民族が永く中核的存在を持続し....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
で登り詰めて、武尊岩の前に立った時には、人も我れも汗びっしょりになっていました。
日本武尊もこの岩まで登って来て引っ返されたと云うので、武尊岩の名が残っているのだ....
「最古日本の女性生活の根柢」より 著者:折口信夫
であるがためといふ中心点より、妻なるがためという方へ、移っていっていたのである。
日本武尊の軍におられた橘媛などは、妻としての従軍と考えられなくもない。崇神天皇の....
「加利福尼亜の宝島」より 著者:国枝史郎
ンデアンとの戦いはまさに白熱の最中にあったが、いかに土人が勇敢であってもとうてい
日本武士には及ぶべくもなく次第次第に敗け色になった。 土人酋長オンコッコは早く....
「光り合ういのち」より 著者:倉田百三
郎などと言うのが出て問答して、知恵くらべ力くらべ、などする仕組みの舞もあった。又
日本武尊の故事から出たらしい火の舞もあった。征服的民族としての原始的気魄が残って....
「秋の筑波山」より 著者:大町桂月
男体山へ上る途の名所は、小町桜と、水無川の、水源と也。小町桜のある処は、むかし
日本武尊の休憩あらせられし処と称す。水無川は、百人一首にある陽成院の『筑波根の峯....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
でにその事実を忘却したり。当時の著作なる『古事記』『日本紀』等には、景行天皇朝に
日本武尊の経略し給える蝦夷の日高見国をも、当時の蝦夷蟠居の域なる北上川下流地方に....
「「日本民族」とは何ぞや」より 著者:喜田貞吉
住土着の民族の綏撫同化の事蹟については、四道将軍の地方巡察、景行天皇の熊襲親征、
日本武尊の西征東伐等、我が古史の伝うる所、またあえて尠少なりというではないが、し....
「奥羽地方のシシ踊りと鹿供養」より 著者:喜田貞吉
角が多く包含せられて、猪牙の極めて少い事からでも想像せられ、記紀の記するところ、
日本武尊の焼津の野火の難における、市辺押磐皇子の来田綿の蚊屋野における、或いは允....
「火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
狭穂彦とともに稲城の中で焼死された。無論屍体も焼けてしまった事であったであろう。
日本武尊も危うく駿河の焼津の野火で、屍体をまでも焼かれ給うべきところであった。ま....
「手長と足長」より 著者:喜田貞吉
の孫を膳夫としたというのも、水に住む漁夫がこの役を勤めた習慣を示している。ことに
日本武尊東征の際の膳夫は七掬脛だとある。八掬脛よりはやや短いが、これは百里に足ら....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
ひなかみ川」とも申し、それがすなわち日高見川であったと考えられます。 かくて後
日本武尊は、その日高見国を平らげて、蝦夷をお従えになりました。これが我が古代史の....
「県歌 信濃の国」より 著者:浅井洌
の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず 六 吾妻はやとし
日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隧道二十六 夢にも越る汽車の道 み....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
ったとか、同じ天皇の熊襲御征伐の時にも、熊襲の娘を誘うて親を殺さしめ給うたとか、
日本武尊の出雲建を誅せられる時に、まず和睦して共に簸の川に水浴し、敵の虚に乗じて....
「戦争史大観」より 著者:石原莞爾
中心となり、必要の前には父母兄弟妻子までも利益の犠牲としたのであった。戦国時代の
日本武将の謀略は中国人も西洋人も三舎を避くるものがあったのである。日本民族はどの....