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「日本美術院〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

日本美術院の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
ゼーロン」より 著者:牧野信一
の能《あた》わぬ一個のブロンズ製の胸像の始末に迷った。――諸君は、二年程前の秋の日本美術院展覧会で、同人経川槇雄作の木彫「※」「牛」「木兎《みみずく》」等の作品....
今日の日本の文化問題」より 著者:宮本百合子
、美術を愛する一般の人々に喜びをもって迎えられている。 日本画の中心的組織は「日本美術院」である。日本画壇は画商と連帯をもった強固なスター・システムでかためら....
美術学校時代」より 著者:高村光太郎
る。その後しばらくして又親父が復帰したので僕も学校にかえった。岡倉先生はまもなく日本美術院を拵らえ、下村観山、横山大観や菱田春草等と共に大きな日本画の改革をやり....
作画について」より 著者:上村松園
附添う母親の責任感のつよく現われた緊張の瞬間をとらえたその絵は――明治三十三年の日本美術院展覧会に意外の好評を博し、この画は当時の大家の中にまじって銀牌三席とい....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
本市本妙寺清正公の地内に彫刻をやっているとの事です。 平櫛田中君は人の知る如く日本美術院の同人である。大阪で修業をされ、中年に私の門下となった。朝雲君等と同じ....
画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
画共進会出品(銅牌)「半咲図」絵画研究大会展出品(銅牌) 同 三十五年 「時雨」日本美術院展出品(三等賞) 同 三十六年 「姉妹三人」第五回内国勧業博出品(二等....
茶の本」より 著者:岡倉由三郎
あった。そしておのが手で守りたててきた東京美術学校を去って橋本雅邦その他の同志と日本美術院を創立したのは明治三十一年(一八九八)の夏、兄の三十七歳の時のことであ....
落日の荘厳に似る」より 著者:吉川英治
と時代をはっきり過ごした。靫彦氏や青邨氏らの感慨もどれほどかと思いやられる。だが日本美術院の光彩は画史上に永遠な業蹟をたしかにのこした。横山大観氏の死はその点で....