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景雲
「景雲〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
景雲の前後の文節・文章を表示しています。該当する9件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「天主閣の音」より 著者:国枝史郎
った。 今日の地理を以て説明すれば、長島町を西へ執り茶屋町、和泉町を北に眺め、
景雲橋の方へ進んで行った。
景雲橋を渡り明道橋を渡り、尚何処迄も西の方へ進んだ。も....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
なかったし、題詞の「緜」という文字は唐でも真綿の事であり、また、続日本紀に「神護
景雲三年三月乙未、始毎年、運之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印....
「画舫」より 著者:豊島与志雄
、眉秀でて口元が緊り、頼もしい精神力を偲ばせる顔立でありました。 「あんたが、李
景雲さんですか。」と秀梅はいいました。 突然、丁寧に呼びかけられて、青年は棒の....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
処から、郷党に感化を及ぼしたのであろうか。島根県からは二、三の人が出ている。加藤
景雲君、内藤伸君などで、いずれも私宅へ参って稽古を致し、今日では知名の人となって....
「間人考」より 著者:喜田貞吉
いうのがあるが、その老すなわちこの中臣間人連老のことであろう。この外続日本紀神護
景雲元年三月には、近衛将曹従六位下勲六等|間人直足人という名も見えて、直姓の家も....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
りますから、こういう浮浪民は昔はことに多かったに違いありません。奈良朝の頃|神護
景雲三年に、浮宕の百姓二千五百余人を陸奥国伊治城に置くとか、平安朝の初め延暦二十....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
求めんとするものは、必ずその長に運上を納めなければならなかったのだ。同書に、神護
景雲三年に京の或る優婆塞が、修行して加賀に托鉢していたところが、その処の浮浪の長....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
から馬鹿にされた場合の多かったことを示しているものだと言わねばならぬ。ことに神護
景雲三年という年に、京の優婆塞が遍歴して越前の加賀郡(後の加賀国)に修行した時に....
「魯迅さん」より 著者:内山完造
し私のぼんやりは、ただのお客様として扱っておったのですが或る時買った本を東横浜路
景雲里二十三号の宅へ届けて呉れといわれた時にお名前はと聞いたら周樹人といわれたの....