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「曹洞〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

曹洞の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
の目ざし向かったところは、関東尼僧寺の総本山なる青梅院《おうめいん》です。禅宗|曹洞派《そうどうは》の流れをうけた男禁制の清浄このうえない尼僧道場で、当時ここに....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
併《あわ》せて水道端と呼んでいました。その水道端、こんにちの二丁目に日輪寺という曹洞宗の寺があります。その本堂の左手から登ってゆくと、うしろの山に氷川《ひかわ》....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
渡って、いわゆる渋谷へ踏み込むと、普陀山長谷寺の表門が眼の前にそびえていた。寺は曹洞派の名刹で、明治以後は大いに寺域を縮少されたが、江戸時代には境内二万坪にも近....
仇討三態」より 著者:菊池寛
の孝節も、すべてが白々しい夢のように消えてしまった。 彼は間もなく、浪華に近い曹洞の末寺に入って得度した。そこで、一年ばかりの月日を過してから、雲水の旅に出て....
名人長二」より 著者:三遊亭円朝
ら、兼松が側から種々と言い慰めて気を散じさせ、翌日共に泉村の寺を尋ねました。寺は曹洞宗で、清谷山福泉寺と申して境内は手広でございますが、土地の風習で何れの寺にも....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
葬等のことを菩提寺任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国|曹洞宗四百三か寺に対抗して宗門|人別帳離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当....
田舎教師」より 著者:田山花袋
界」の感情派の人々とも往来した。ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。麻布の曹洞宗の大学林から早稲田の自由な文学社会にはいったかれには、冬枯れの山から緑葉の....
思想と風俗」より 著者:戸坂潤
民其の他の大衆の一部に、一定の地方的地域に従って、深く根を下している。特に真宗・曹洞宗・浄土宗・日蓮宗などがその主なるもので、仏教徒の総数約四千六百余万と称され....
残されたる江戸」より 著者:柴田流星
同じく喜捨のお鳥目を吝まず、搗て加えては真宗の人も、浄土の人も、真言、天台、禅、曹洞、諸宗の信徒悉く合掌礼拝、一応の崇敬をば忽せにせず、帰りには名物の煎餅、枝柿....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
で突留めました。上野原は報福寺、一名を月見寺と申しましてな、お宗旨《しゅうし》は曹洞、かなりの大きなお寺でございます……そこに、一件のお喋りの盲法師が逗留してい....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
とどめた時に、もう一人が、 「おや……」 「これは例の妙応寺でござろう、青坂山、曹洞宗、西美濃の惣録《そうろく》――開山は道元禅師の二世莪山和尚。今須の城主長江....
東洋文化史における仏教の地位」より 著者:高楠順次郎
これを文部大臣が普通の大学と同じように見て、仏教大学じゃいかぬ、竜谷大学にしろ、曹洞宗大学ではいかぬから駒沢大学にしろというように、俗名を付けさして普通の法律大....
濹東綺譚」より 著者:永井荷風
がら歩いている。板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻《よつつじ》で。辻の向側には曹洞宗東清寺と刻《しる》した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。わ....
粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)」より 著者:三遊亭円朝
にて竜宮の様な妙な形の中門で、右の方はお台所から庫裏に繋っており、正面は本堂で、曹洞派の禅林で、安国山総寧寺と云っては名高い禅寺でございます。 百姓「玄堂さん/....
仏教人生読本」より 著者:岡本かの子
になりません。 名将の言葉に「戦争は演習の延長だ」というのがあります。 日本曹洞宗の開祖、道元禅師のこつを教えられた言葉に「修業と効果とを二つのものに見ては....