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最明寺
「最明寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
最明寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「母」より 著者:太宰治
みたいなものを着て来るのかね。」 「わざと身をやつして行くのです。水戸黄門でも、
最明寺入道でも、旅行する時には、わざときたない身なりで出かけるでしょう? そうす....
「吾輩は猫である」より 著者:夏目漱石
滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐《ときわ》にて
最明寺《さいみょうじ》の御馳走《ごちそう》をしてから以来|今日《こんにち》に至る....
「婦系図」より 著者:泉鏡花
の黒髪たぐいなき、柳橋の小芳であった。 立身で、框から外を見たが、こんな門には
最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝になって、 「あいにく出掛けて居りません....
「備忘録」より 著者:寺田寅彦
、ちぐはぐな心の調律をして回るような人はないものであろうか。 物語に伝えられた
最明寺時頼や講談に読まれる水戸黄門は、おそらく自分では一種の調律師のようなつもり....
「小春の狐」より 著者:泉鏡花
私はちょっかいを出すように、面を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の
最明寺どののような形を、更めて静に歩行いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎ....
「学生と先哲」より 著者:倉田百三
造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野入道に付して、古
最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。(安国論御勘由来)」....
「河伯令嬢」より 著者:泉鏡花
婆さんに途を聞くと、いきなり奥へ入って、一銭もって出た……(いやとよ、老女)と、
最明寺で書いていますが、報謝に預るのではない、ただ路を聞くのだ、と云うと、魂消た....
「国号の由来」より 著者:喜田貞吉
知識において、我が邦の最東に在りと認めた奥州を以て、日の本と呼ぶ例であった。かの
最明寺時頼の著と俗称する人国記に、「陸奥は日の本故に、色白うして眼青みあり」とあ....
「炭焼長者譚」より 著者:喜田貞吉
吉次信吉というものに委ね、ついに炭焼にまでなり下ってそれで炭焼藤太と呼ばれ、後に
最明寺入道に見出されて本領の安堵を得たのみならず、西海の軍に功を立てて、津軽家中....
「三国志」より 著者:吉川英治
これを日本の古典「鉢の木」と思いくらべてみたまえ。雪の日、佐野の渡しに行き暮れた
最明寺時頼の寒飢をもてなすに、寵愛の梅の木を伐って、炉にくべる薪とした鎌倉武士の....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
か二、三十年。――以後、北条氏がとって代ってからは、中興のひと北条|泰時の善政、
最明寺時頼の堅持、また、元寇の国難にあたった相模太郎時宗などの名主も出て、とまれ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
法はすべて今と昔の“比較”に基準をおいている。 また、北条|泰時の善政時代や、
最明寺時頼の名君ぶりなどが、あたまの髄をなしていて、 「じたい今の天皇家もなって....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ていた。高時は悧巧な人間では決してない。ましてや、北条氏中興のお人、泰時公、また
最明寺時頼公。そんなお方にくらべられたら、途方もない、不肖な子孫ではあったろうよ....
「随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
が、郷土史家の一史眼ではあると思った。 兼好法師の「徒然草」には、謡曲鉢ノ木の
最明寺時頼が、旅すがら、足利家にも立ち寄っていたことが見える。夜物語りの酒のあと....
「年中行事覚書」より 著者:柳田国男
たない泥水だというような、裏の話のついているのもある。四国の一部では、その旅僧が
最明寺時頼だったという話になっているが、女が茶碗の縁を少し打ち欠いて、ここは私が....