条下[語句情報] » 条下

「条下〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

条下の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
土曜夫人」より 著者:織田作之助
終った。春隆は早口に畳みかけて、 「――今夜はしかし僕田村へ行ってます。木屋町四条下ル。田村と赤い提灯が出ている料理屋です。ホールが引けたら、いらっしゃい」 ....
「いき」の構造」より 著者:九鬼周造
きよもと》などのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認....
身投げ救助業」より 著者:菊池寛
みであった。 ところが、娘は母の望みを見事に裏切ってしまった。彼女は熊野通り二条下るにある熊野座という小さい劇場《こや》に、今年の二月から打ち続けている嵐扇太....
霊訓」より 著者:浅野和三郎
うが、初学者の為めに、念の為めに二三の注意を試みることにする。 『真人の出現』の条下に於て、数十年前に予言されたことが、現在に於ていよいよ地上に出現しつつあるこ....
耳無芳一の話」より 著者:小泉八雲
それ故芳一は進んでこう訊ねた―― 『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下を語れという殿様の御所望で御座いますか?』 女の声は答えた―― 『壇ノ浦の....
夢は呼び交す」より 著者:蒲原有明
、山崎にある阿部の屋敷に討ち入ろうとして、討手のものが払暁に表門の前に来る。その条下に板塀の上に夾竹桃が二、三尺伸びているように書いてある。徳川時代の初期、寛永....
幼き頃の想い出」より 著者:上村松園
こらの頃、私達一家は四条の河原町の近くに住居を持って居りましたが、その河原町の四条下った東側に菊安という古本屋がございました。明治二十年過ぎのことでございますか....
国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
字を『ク』の仮字に用うる事はいかにも無理だ。故吉田博士は、その地名辞書吉野国樔の条下に、諸国に多き栗栖、小栗栖の名は、『クズ』の転りにあらずやと疑われ、紀伊国栖....
国号の由来」より 著者:喜田貞吉
と古えの倭人国とを以て、本来別国なりとするの説が無いでもなかった。後に日本国号の条下引くところの唐書には、日本はもと小国にして、倭の併合するところとなり、よりて....
間人考」より 著者:喜田貞吉
前三島の統計は不完全にして、詳細に知り難く候。其の記載例を見るに、例へば元屋村の条下には、 一、家数三拾六軒内 とあり、明かに百姓と区別したのものに有之候。而....
サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
三好記雍州府志)をも、エタの名を以て呼んでいた事は、「エタと皮多」(三巻六号)の条下にも既に説き及んでおいた事である。すなわちもとはその語の及ぶ範囲が極めて広か....
編輯雑感」より 著者:喜田貞吉
に出入りしたのは、確か明治四十二年の事であったと記憶する。当時自分は京都の縄手三条下る処に寓居しておった。したがってその付近にある旧悲田院の部落や、旧エタの頭村....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
があったが、後に至って必ずしもそのしからざることを明らかにした。別項「シュク」の条下を見られたい。 「延喜」の諸陵寮式には、各陵墓についてそれぞれ陵戸守戸の数を....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
に存して、普通の声聞師がとったと同じ職業に従事していた。『平城坊目考』奥芝辻町の条下に、 按に当郷往年東芝辻の領内なり。今別郷となる。 中世以往農工商の住所にあ....
私の履歴書」より 著者:井上貞治郎
を続けたが、どうも下宿屋は思わしくない。大きな家も持てあましてきたので、西洞院七条下ル堀川の小さな家へ移った。ここで細々とまぐさ屋を続けたが世帯は苦しく、私は気....