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「来援〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

来援の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
地球発狂事件」より 著者:海野十三
そうな表情になって 「なかなか面倒らしいですね。昨日の午後になって本国へ航空隊の来援を打電していたようですよ」 「航空隊の来援を……。すると何か重大な発見でもあ....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康の来るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて来援した。 (家康に取っても、大事な軍であった。信長より加勢を乞われて、家康の諸....
厳島合戦」より 著者:菊池寛
毛利の勝なるべしと言って二百余艘の軍船が毛利方へ漕ぎ寄せた。 陶の方からも勿論来援を希望してあったので、この二百艘の船が厳島へ漕ぎ寄するかと見る間に、二十日市....
川中島合戦」より 著者:菊池寛
道を絶ちたるため、我が軍の糧食は今後|将に十日にして尽きん。速に春日山の留守隊に来援を命じ甲軍の背後を衝かしめられては如何」と進言したが、謙信は「十日の糧食があ....
賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
よいのだ、と云棄てて直に賤ヶ岳に上った。賤ヶ岳では折柄悪戦の最中であるから、長秀来援すと聞いては、くじけた勇気も振い起らざるを得ない。盛政の方では長秀|来ると聞....
十二支考」より 著者:南方熊楠
せやった。翌年韓原の戦に負け掛かった時、去年馬を食い酒を貰《もろ》うた者三百余人来援し大いに克《か》ちて晋の恵公を擒《とりこ》にした。また晋の趙簡子両白騾ありて....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
、二人は予《かね》ての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西....
丹下左膳」より 著者:林不忘
―厳命にあることだから、ここはどうしても故里《くに》おもてから屈強の剣士数十名の来援を乞《こ》うて、一つには五人組にそなえ、同時に多勢不意に襲撃し、栄三郎、泰軒....
自警録」より 著者:新渡戸稲造
送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公《しゅこう》の大軍すでに出発したれば来援《らいえん》三日を出《い》でぬであろう、諸君努力せよと叫《さけ》んだ。ために....
南国太平記」より 著者:直木三十五
格闘を、自分に関係の無い人々が起したように、眺めていたが、広岡が、つづけざまに、来援を求めた叫びを聞くと 「おお」 と、答えた。人々は、夢中に、組み合っていた....
土から手が」より 著者:牧逸馬
検察官兼警察医ポウル・シェリダン博士が現場に出張して、直ちに桑港の当局へ電話して来援を求めたのだ。半月湾国道《ハアフ・ムウン・ベイ・ハイウエイ》の山間の河床で発....
三国志」より 著者:吉川英治
ノ賊徒等県郡ニ蜂起シテ雲集シ青州ノ城囲マレ終ンヌ落焼ノ運命スデニ急ナリタダ友軍ノ来援ヲ待ツ 景 と、あった。 玄徳は、また進んで、 「願わくば行いて援けん」....
三国志」より 著者:吉川英治
。 城兵の士気は甦った。 孤立無援の中に、苦闘していた城兵は、思わぬ劉玄徳の来援に、幾たびも歓呼をあげてふるった。 老太守の陶謙は、「あの声を聞いて下さい....
黒田如水」より 著者:吉川英治
いうのだった。 「――すでに、この春には、大挙して、毛利家の水軍が、舳艫相啣んで来援にまいると、正しく我へ誓紙を入れて約束していることだ。軍備の都合上、遅れたに....
戦争史大観」より 著者:石原莞爾
軍団の兵力(八万一千)をもって、リーニー川の線に陣地を占領し、英将ウエリントンの来援を頼んでナポレオンと決戦せんと企図していた。 ナポレオンはフルイルース附近を....