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「東下〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

東下の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
東海道五十三次」より 著者:岡本かの子
町ともつかず村ともつかない鄙《ひな》びた家並がある。ここは重衡《しげひら》の東下りのとき、鎌倉で重衡に愛された遊女|千手《せんじゅ》の前の生れた手越《たごし....
乱世」より 著者:菊池寛
に揉み潰されるのは、決っている。 死守説は少数で、すぐ敗れた。その後で、議論は東下論と恭順論との二つに分かれた。東下論は硬論であり、恭順論は軟論であった。 ....
大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
ら、一、浪人赦免、二、秀頼|転封の二条件を提議し、大阪方からは、一、淀君質として東下、二、諸浪人に俸禄を給するために、増封の二条件を回答した。媾和進行中に塙団右....
小田原陣」より 著者:菊池寛
に、その女房達を招き寄せることを勧め、自分でも愛妾の淀君を呼び寄せて居る。淀君が東下の途中、足柄の関で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇もあった。....
旗本退屈男」より 著者:佐々木味津三
て挨拶も致さず通りぬけるは即ちもぐりの大名じゃッ。その方共は島津の太守の名を騙る東下りの河原者かッ」 「なにッ、名を騙るとは何事じゃッ、何事じゃッ。よしんば長沢....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
って、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
四月二十七日に美濃|苗木の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前城主|津軽侯の通行とを迎えたのみだ。 しかし、馬籠の宿場が閑散であ....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
た。命に従わず朝《ちょう》を軽《かろ》んずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊《うかつ》....
岷山の隠士」より 著者:国枝史郎
安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄成王と舟師を率い、江淮に向かって東下した。 李白は素敵に愉快だった。 「うん、天下は廻り持ちだ。天子になれない....
秋の筑波山」より 著者:大町桂月
。 当年の関城主は誰ぞや。関宗祐、宗政父子也。延元三年、親房は宗良親王を奉じて東下せしに、颶風に遭ひて、一行の船四散し、親房は常陸に漂着し、ひと先づ小田城に入....
深夜の電話」より 著者:小酒井不木
、常にえもいわれぬ美しさを呈しております。皆さんは、『太平記』の中の俊基朝臣の「東下り」の条をお読みになったことがありましょう。 「竹の下道行きなやむ足柄山の峠....
瘠我慢の説」より 著者:石河幹明
今|仮りに一歩を譲り、幕末に際して外国干渉の憂ありしとせんか、その機会は官軍東下、徳川|顛覆の場合にあらずして、むしろ長州征伐の時にありしならん。長州征伐は....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
々にして鎌倉幕府を指し、あるいは一般に武士を示すの語となれり。『太平記』俊基朝臣東下りの道行のうち、池田宿の条に、 元暦元年の比かとよ、重衡の中将の、東夷の為....
ハイカラ考」より 著者:木村荘八
いう「お国振り」とも云おうか、われわれ、今にして思えば、千年も前のようなお姿で、東下りなさったのであったが、明治四年になると散髪令一下されて、参議連の木戸、大隈....
穂高岳槍ヶ岳縦走記」より 著者:鵜殿正雄
がこの始末、そこで櫓に登り中食をしながら附近を見る、櫓柱は朽ちて央ば以上形なし、東下の石小屋は、屋根が壊れていて天套でもなければ宿れそうもない、たまたま霧の間か....