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「東夷〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

東夷の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
学生と先哲」より 著者:倉田百三
問いと危機 日蓮は太平洋の波洗う外房州の荒れたる漁村に生まれた。「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺|旃陀羅が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天....
大鵬のゆくえ」より 著者:国枝史郎
怪奇な紅隈と同じ怪奇の扮装で、長刀佩いてヌタクリ出で、さて大見得を切った後、 「東夷南蛮|北狄西戎西夷八荒天地|乾坤のその間にあるべき人の知らざらんや、三千余里....
宇都野さんの歌」より 著者:寺田寅彦
稀薄になるかと思う。 宇都野さんの歌はどう見ても大宮人の歌ではない、何処かしら東夷とでも云いたいような処があると私は思う。その点を私は面白いと思う。そしてそう....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
うまでもなく古史に見ゆる蝦夷、すなわち今日北海道になお約二万の遺※紳これを賤みて東夷と貶称し、さらに一般に武士のことをも「えびす」という。鎌倉・南北朝ころの日記....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
―あれに魂がはいって揚幕から花道にゆるぎ出た時、さらに花道の七三に坐って、例の“東夷西戎南蛮北狄”の長台詞を朗々たる名調子で淀みなくつらねた時、わたしは満場の観....
知々夫紀行」より 著者:幸田露伴
つの頃よりか武甲と書きならわししより、終に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊東夷どもを平げたまいて後|甲冑の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
て「願文」を捧ぐるや、みずからその俘囚なることを明言しているのである。 弟子は東夷の遠酋なり。生れて聖代の征戦なきにあひ、長く明時の仁恩多きに属す。蛮陬夷落之....
国号の由来」より 著者:喜田貞吉
国を以て任じ、天に二日なく、地に二王なしとの信条の下に、諸外国はことごとくこれを東夷・西戎・南蛮・北狄などと称し、天子はすなわち天命によりて、あまねく天下を統治....
炭焼長者譚」より 著者:喜田貞吉
既に富を重ねてみれば、だんだん栄花がほしくなる。なお俘囚の長たる平泉の藤原氏や、東夷と呼ばれた鎌倉幕府が、都の文化を輸入し、都人を使役した様に、その富にまかせて....
人身御供と人柱」より 著者:喜田貞吉
あり、衢を遮り、径に塞がりて、多く人を苦しましむとも、またそれを具体的に述べて、東夷のうち蝦夷もっとも強く、党類を聚めて辺界を犯し、農桑を伺いて人民を略すともあ....
本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
て、夷狄藤原氏を討伐せん為であったと解せられます。ことに藤原清衡の如きは、自ら「東夷の遠酋」と云い、「俘囚の上頭」と云い、その配下を称して「蛮陬夷落」、「虜陣戎....
春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
同じアイヌ種の蝦夷人をでも、奥州を東とし、越後・出羽を北といったがために、シナの東夷・北狄の語を取って、越後・出羽方面の蝦夷をしばしば蝦狄あるいは狄俘といったの....
性に関するアイヌの習俗」より 著者:河野広道
れ故にこそ和人に小便をかけられながら、おとなしく償を出したのである。 勝知文の東夷周覧(享和元年)にはメノコの女陰を見た和人が償をとられそうになってやっと助か....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを「夷」と云っております。鎌倉武士の事を「東夷」と云っております。北条泰時が貞永式目という法律を作りました時に、「かように....
「特殊部落」と云う名称について」より 著者:喜田貞吉
至って、ついに鎌倉に幕府を開き、天下の政権を掌握するの勢いとなった。或る公家から東夷と呼ばれても、実力のあるところに天下の権は帰する。ここに於いてさらにその頼朝....