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東照宮
「東照宮〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
東照宮の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「或る女」より 著者:有島武郎
でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前のだらだら坂を
東照宮《とうしょうぐう》のほうまで散歩するような事もあった。冬の夕方の事とて人通....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
すべし。渡さざるに於いては天下の大変|出来《しゅったい》いたすべしと、昨夜の夢に
東照宮のお告げあり、拙者はそのお使にまいった』と、まじめな顔をして、大きい声で呶....
「婦系図」より 著者:泉鏡花
に在るべき、河野の統領英臣であったのである。 英臣が、この石段を、もう一階で、
東照宮の本殿になろうとする、一場の見霽に上り着いて、海面が、高くその骨組の丈夫な....
「天主閣の音」より 著者:国枝史郎
雁の頃となった。 或日宗春は軽装し、愛妾お半の方を連れ、他に二三人の供を従え、
東照宮へ出かけて行った。彼には斯ういう趣味があった。一方豪奢な行列を調え、城下を....
「ドナウ源流行」より 著者:斎藤茂吉
ではなかった。譬えば、長崎でシイボルトが伊藤圭介に呉れたという虫目金とか、久能山
東照宮にある西班牙マドリー製の置時計とか、京都市妙心寺の南蛮寺鐘とか、そんなもの....
「日本文化私観」より 著者:坂口安吾
きに如かざるの物である。 無きに如かざるの精神にとっては、簡素なる茶室も日光の
東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、詮ずれば同じ穴の狢なのである。この精神か....
「戦後新人論」より 著者:坂口安吾
ために、人力の限りをつくして、当時最大の豪奢を狙い、華美をつくしたもので、日光の
東照宮の造営精神と異るところはなく、雅叙園の建築精神と異るところもない。 落語....
「“歌笑”文化」より 著者:坂口安吾
や、そういう最も世俗的な、俗悪なものの中から育ってくるにきまったものだ。法隆寺や
東照宮がそういう時代的な俗悪な産物であったように、落語とても、もとは、そのように....
「我が人生観」より 著者:坂口安吾
ジャズであり、ヴギウギであり、日常の必要品であったのだ。 法隆寺も、金色堂も、
東照宮も、威勢を示してアッと云わせて、ついでにオサイセンもまきあげてやろうという....
「十二神貝十郎手柄話」より 著者:国枝史郎
った。明和元年十一月の末に、上州、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光
東照宮法会のため、一村について六両二分ずつの、臨時税を課するという誅求を怒って、....
「正雪の遺書」より 著者:国枝史郎
ることも容易である。一手は下野日光山に立籠もることも肝要でござろう。華麗を極めた
東照宮を焼き立てるのも一興じゃ」 それから私はなお細々と、策戦について語りまし....
「鴎外の思い出」より 著者:小金井喜美子
は縁つづきになるのでした。米峰氏もそこへ行かれるので、御一緒に駕籠町で乗り換えて
東照宮下で降りました。何の御話をしたかよく覚えませんが、三宅雪嶺氏御夫婦のお話を....
「式部小路」より 著者:泉鏡花
、とでも、こちの人とでもいうわ。と大呑気だから、愉快い、と引受けたんで。あれから
東照宮の中を抜けて、ぶらぶらしながら谷中の途中、ここが御註文と思うから、多勢人の....
「鴎外博士の追憶」より 著者:内田魯庵
騒がした翌る年、タシカ明治二十三年の桜の花の散った頃だった。谷中から上野を抜けて
東照宮の下へ差掛った夕暮、偶っと森林太郎という人の家はこの辺だナと思って、何心と....
「本所両国」より 著者:芥川竜之介
れない。 僕等はいつか埃の色をした国技館の前へ通りかかった。国技館は丁度日光の
東照宮の模型か何かを見世物にしている所らしかった。僕の通っていた江東小学校は丁度....