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「梅松論〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

梅松論の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
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私本太平記」より 著者:吉川英治
も、余りにかすんで、かえりみても、かえりみきれぬ。 行宮にあてられた三明院は「梅松論」に、 御座舟、美保ノ浦に着き給ふ。かりに、この津にありける古き御堂をもて....
私本太平記」より 著者:吉川英治
ていた。 が便宜上、長年を使ってゆく。 それと「伯耆巻」「船上記」「増鏡」「梅松論」すべてが、帝の潜幸事情を、漂流者のあてなしみたいに観て、長年もまた、勅の....
私本太平記」より 著者:吉川英治
彼の鎌倉出発いぜんに取られていたのはいうまでもないが、その仲介者はたれなのか。「梅松論」以下の書にも、それはたれとも明記はしてない。しかし前後の事情からみて、お....
私本太平記」より 著者:吉川英治
路藤房が、厭世的な気鬱に負けて、恩賞局を辞し去った気もちもわかる。そのひどさは「梅松論」なども、 天皇の側臣 随時に秘奏をへて 非義を申し行ふため 綸旨 朝に変....
私本太平記」より 著者:吉川英治
の陣所から八橋まで出て、兄尊氏の全軍を迎えた。 相互、無量な感であったろう。「梅松論」がいう――当夜、矢矧ニ御着アツテ、京都鎌倉ノ両大将御対面、久々ナル御物語....
私本太平記」より 著者:吉川英治
はかってください」と、よろいの片袖をちぎッて形見に送り届けたという。――これは「梅松論」の説だが、そんな余裕があったとも思われない。おそらくそれほどな危急だった....
私本太平記」より 著者:吉川英治
図もあってその一船一船には、篝火の数のかぎりを焚かせていた。その景観の状は、 「梅松論」に、 艫、舳、 ともす篝火は、 浪を焼くかとぞ 見えて赤し とあるその....
随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
として信じるわけにいかない学説は古くからあった。けれどまた、北朝方の手に成った「梅松論」という一書もあり、これはむしろ足利尊氏方なので、二書をあわせ見れば、やや....