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「楠木正成〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

楠木正成の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
荒雄川のほとり」より 著者:佐左木俊郎
いう噂である。もう一つ、ここには守屋大臣の碑が雨ざらしにされている。十五六年前、楠木正成の筆らしいと騒がれたこともあったが、それはそのまま立ち消えになってしまっ....
鉄面皮」より 著者:太宰治
ら、楽しく読めることもあるけれど、あの、深刻そうな、人間味を持たせるとかいって、楠木正成が、むやみ矢鱈に、淋しい、と言ったり、御前会議が、まるでもう同人雑誌の合....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
リ、荷ヲ運ブニ用フルモノナリ」 といったような型でしたが、ある時、或る学校で「楠木正成」という課題を出しました。大楠公《だいなんこう》のことに就いては、修身課....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
宝荒神の前立《まえだて》のある上杉謙信公の兜だったというものもあります。いやいや楠木正成卿の兜だというものもあります。そうではない、伊達の大御先祖の軍配であった....
昭和遊撃隊」より 著者:平田晋策
いて、小笠原島に進む木下大佐の心は、湊川《みなとがわ》の戦場に向う、六百年前の、楠木正成《くすのきまさしげ》の心とちがわない。 「艦長。お苦しいでしょうね。」 ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
もまた、しかりだった。 彼は、俊基が鎌倉へ曳かれた折、主から見込まれて、河内の楠木正成宛の一書を托され、それは首尾よく、その人の手へとどけていた。 けれど、....
私本太平記」より 著者:吉川英治
っと下だが、もう山裾の一端にはかかっている。 佐備ノ郷龍泉の里という。 兄の楠木正成は、ほど近い水分に“御本屋”として、さらに大きな山館を構えているが、弟の....
私本太平記」より 著者:吉川英治
公卿を見て、お口に出された。 「かねてより聞いておる者だが、河内の水分ノ庄に住む楠木正成とやらは、まだ参陣してまいらぬな」 「さればで……」 と、侍座では、言....
私本太平記」より 著者:吉川英治
た。とかくこの鎌倉では「名もない土豪の小さかしい野心沙汰」と見て、軽視の風がある楠木正成も、赤坂から千早への築城を完了し、金剛山一帯は、今やひとつの連鎖陣地をな....
私本太平記」より 著者:吉川英治
も倦み腐ッてしまっていたか。 どっちにしろ、鎌倉の錚々十二大将が、ただひとりの楠木正成を、こうまで持てあましてきた帰結が、ついに足もとの大地盤を先に失う日をい....
私本太平記」より 著者:吉川英治
シ「正慶」ノ年号ハ停止スル などの発布はすましておられたが、なおさしあたって、楠木正成、名和長年、足利高氏、新田義貞、赤松円心、千種忠顕、北畠親房、等々、あま....
私本太平記」より 著者:吉川英治
れていたかがわかる。 が、これは正面大手だけのことだった。 ――宇治方面では楠木正成の五千騎が、宇治橋を断り、槙ノ島、平等院のあたりに黒煙をあげ、ここの守備....
私本太平記」より 著者:吉川英治
をたたえた五月の海が夕を待っているだけである。 じつに、こんなときだった。――楠木正成、正季以下の急援部隊がこれへ着いたのは。――そしてこの一軍も、夜来の風雨....
私本太平記」より 著者:吉川英治
子にも意味のうけとれないことが多かった。ただいちど「河内どの」と明らかに言って、楠木正成と話してでもいるような幾言かを洩らしたときは、登子にもすこぶる意外な思い....
茂吉の一面」より 著者:宇野浩二
、他の一通は、昭和十五年の七月十一日(午後零時――四時)のスタムプが押してある、楠木正成が馬に乗っている銅像を図案化した模様が左の肩に赤色で印刷した弐銭の普通の....