榎本武揚[語句情報] »
榎本武揚
「榎本武揚〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
榎本武揚の前後の文節・文章を表示しています。該当する10件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
條野採菊翁が伊井蓉峰君に頼まれて「茲江戸子」という六幕物を書くことになった。故|
榎本武揚子爵の五稜郭戦争を主題にしたものである。採菊翁は多忙だということで、榎本....
「渋江抽斎」より 著者:森鴎外
が歿してからは家に帰っていて、今|仕宦したのである。 この年|箱館に拠っている
榎本武揚を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒....
「一九二五年より一九二七年一月まで」より 著者:宮本百合子
五十五年も居て明治45年に死んだ。来たのはハコダテの領事館づき。その頃はこだては
榎本武揚の事があった故か仙台の浪人が多く居た。一人、四国の漢学者の浪人アリ。攘夷....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
うな。今だってなみたいていなものは前へ廻れまいさ。」 「釜さんて誰のこと。」 「
榎本武揚《えのもとたけあき》って人があるだろう。」 「ああ、知ってる。」 「あの....
「瘠我慢の説」より 著者:石河幹明
瘠我慢の説は、福沢先生が明治二十四年の冬頃に執筆せられ、これを勝安芳、
榎本武揚の二氏に寄せてその意見を徴められしものなり。先生の本旨は、右二氏の進退に....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
人は維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けたこともあり、後、五稜廓で奮戦した
榎本武揚氏とも往来をして非常な徳川|贔負の人であって剣道も能く出来た豪傑、武士道....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
渡辺洪基氏を撰みました。同氏は永く会のために尽力されました。途中死去され、没後は
榎本武揚氏。氏が没して後は土方久元氏。それから現在の会頭は平山成信氏で、井生村で....
「瘠我慢の説」より 著者:福沢諭吉
《ふうきょう》の為《た》めに深く悲しむべきところのものなり。 また勝氏と同時に
榎本武揚《えのもとたけあき》なる人あり。これまた序《ついで》ながら一言せざるを得....
「瘠我慢の説」より 著者:榎本武揚
福沢先生 拙、此程より所労平臥中、筆を採るに懶く、乱筆|蒙御海容度候。
榎本武揚氏の答書 拝復。過日|御示被下候貴著|瘠我慢中、事実相違之廉並に小生之....
「福沢諭吉」より 著者:高山毅
どで、官軍にてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。幕府の海軍のせきにん者だった
榎本武揚も、この五稜郭でとらえられたのでした。 このように世の中がさわがしかっ....