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「正保〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

正保の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
阿部一族」より 著者:森鴎外
あった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒《い》えて光尚に拝謁《はいえつ》した。光尚は鉄砲十挺....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保元年、明朝が亡びて清朝となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠....
巌流島」より 著者:直木三十五
る」とか、吾々の想像も出来ぬ感覚をもった話が残されているが私は事実であると思う。正保二|乙酉《きのととり》年五月十九日、熊本で死んだ。養子宮本伊織の建てた碑が未だに小倉市外に立っている。....
丹下左膳」より 著者:林不忘
「ハッ、まさにそのとおりで」 あとを受けついだ主水正は、指を折って数えて、 「正保《しょうほう》二年、承応三年、寛文四年九月、延宝七年……と、ちょっと数えまし....
梅津只円翁伝」より 著者:杉山萠円
野儀助(以上狂言方) その他故人となった人々では(順序不同)、 間辺――、梅津正保、山本毎、梅津朔造、同昌吉、桐山孫次郎、川端久五郎、上原貢、戸川槌太郎、小山....
不尽の高根」より 著者:小島烏水
サックを提げて町を歩きだした。さすがに上吉田は、明藤開山、藤原|角行(天文十年―正保三年)が開拓して、食行身禄(寛文十一年―享保十八年)が中興した登山口だけあっ....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
そして熱海に海嘯があった。その寛永には十六年十一月に越前にも大きな地震があった。正保元年三月には日光山、同年九月には羽後の本荘、同三年四月には陸前、磐城、武蔵、....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
なり、天地の始め、国土の柱、天下国治、大行の本也《もとなり》、とお遺言なさって、正保の三年に、富士の人穴で御帰幽なさいました」 そこで富士の霊山こそは、日本の....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
が神に祀らるるに至った理由はほかにあるのです。 右の高坂甚内は、寛永の中頃から正保年間までの間の人で、その時分の南の仕置場は、本材木町五丁目にあり、北の仕置場....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
毛脛屋敷の床の下に、大きな地下室が出来ていた。 この屋敷が建てられたのは、正保年間のことであって、慶安謀反の一方の将軍、金井半兵衛正国がずっと住んでいたと....
興津弥五右衛門の遺書」より 著者:森鴎外
守殿光尚公の御代と相成り候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより先き寛永十三年には、同じ香木の本末を分....
増上寺物語」より 著者:佐藤垢石
と言われている。 秀忠の夫人崇源院の霊廟は、台徳院の北隣に建っている。崇源院は正保四年三月十七日に、入仏供養が行なわれているが、その規模は台徳院に比べて少し小....
植物一日一題」より 著者:牧野富太郎
元禄十一年(1698)に出版された貝原|損軒《そんけん》(益軒)の『花譜』には「正保《しょうほ》の比《ころ》はじめてもろこしより長崎へきたる」と述べ、また宝永六....
興津弥五右衛門の遺書(初稿)」より 著者:森鴎外
く、これまた頼入り候。某が相果て候今日は、万治元|戊戌年十二月二日に候えば、さる正保二|乙酉十二月二日に御逝去遊ばされ候松向寺殿の十三回忌に相当致しおり候事に候....
皇海山紀行」より 著者:木暮理太郎
相当することが判然したのである。 しかし古い図書には皇海山の名は記載してない。正保図には利根勢多二郡及|下野との境に「さく山」と記入してある。貞享元年九月二十....