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「正平〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

正平の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
神社合祀に関する意見」より 著者:南方熊楠
し出で、悪事をなす者多し。これを救済せんとて山口県等では盆踊りをすら解禁し、田中正平氏らはこれを主張す。かかる弊事多きことすら解禁して村民を安んぜんとするも、盆....
四条畷の戦」より 著者:菊池寛
た分散的な諸勢力を一括した正行は、今や北朝にとっては一大敵国をなして居るわけだ。正平二年七月、畿内の官軍は本営を河内東条に移し、菊水の旗の本に近畿の味方を招集し....
運命」より 著者:幸田露伴
質実に惟美、母の蕭氏に事えて孝を以て称せられ、洪武十七年|旌表せらる。其の立言|正平なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又是一個の好人物なり。時に事に当る者、....
雪たたき」より 著者:幸田露伴
先の痕は美しい青畳の上に点々と印されてあった。 南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐というものの手によって論語が刊出され、其他|文選等の書が....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。正平年間は非常に地震の多い年で、約百回も地震の記録があるが、そのうちで大きかった....
上海の渋面」より 著者:豊島与志雄
にその当面の必須事たる安居楽業を得さしてやるだけでも、容易なことではあるまい。趙正平氏は私達に、氏が政治の要諦と観じているらしい老子研究の自著を贈られたが、上述....
明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
藤兵衛の代理格で、働いている。 以上の二人をのぞくと、あとは十八の金次、十七の正平、十五の彦太郎、十三の千吉、十二の文三、みんな子供だ。金次と正平はすでに顧客....
雪の宿り」より 著者:神西清
家財|御衣裳の御引移しが始まります。太平記と申す御本を拝見いたしますと、去んぬる正平の昔、武蔵守殿(高師直)が雲霞の兵を引具して将軍(尊氏)御所を打囲まれた折節....
剣侠」より 著者:国枝史郎
と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平七年十二月十九日、新田|義宗南軍を率い、足利尊氏を狩野河に討つべく、武蔵の国....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
楠公の遺物ではないかと川崎氏はさらに調査を進めまして、皮を剥がして見ると、中から正平六年六月という年号が出て来ました。そうして見ると、楠公が没した後の製作だとい....
小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
した。 姫山の天主閣の上では、小坂部が高い窓の隙きから夕空を眺めていた。それは正平五年二月の半ばであった。折りおりに下界の様子をうかがいに出る眇目の男は、頂上....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
ら、二条家の者たちは手が出なかった。こうした中で、『続後拾遺集』から二十一年目、正平元年(貞和二年)十一月九日に、光厳院御自撰で成ったのが『風雅和歌集』であった....
三国志」より 著者:吉川英治
れは適任だ」 すぐ召し呼べとあって、相府から使いが走った。 平原の禰衡、字は正平。迎えをうけて、ふだん着の垢臭い衣服のまま、飄々乎としてやってきたが曹操以下....
私本太平記」より 著者:吉川英治
沸らせずにいられなかった。 正行が戦死したのは、それからわずか八日後の、明けて正平三年正月の五日だった。 四条畷、終日のたたかいは、壮烈をきわめ、彼の死も花....
随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
小島ノ法師円寂とされている。が、この人の伝記もよくわかっていない。書かれた時代は正平から応安年間(今から約六百年前)ごろだろうと考察されている。いずれにせよ、足....