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歿年
「歿年〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
歿年の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「渋江抽斎」より 著者:森鴎外
した。然るに安永六年|丁酉に四十、寛政四年|壬子に五十五、同九年|丁巳に六十四、
歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十....
「細木香以」より 著者:森鴎外
哉 永機 香以去後に凋落して行く遊仲間のさまを示さむがために、此に二三の人の
歿年を列記する。為山は明治十一年、玄漁は十三年、隣春は十五年、等栽は二十三年、是....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
ことを云わずに、ただ妻のことを云っているのも、なかなかよいことである。次に人麿の
歿年はいつごろかというに、真淵は和銅三年ごろだろうとしてあるが、自分は慶雲四年ご....
「飛騨の顔」より 著者:坂口安吾
だ日の翌日、推古三十一年二月二十二日に聖徳太子が死んだと書いている。(この太子の
歿年は書紀も古事記も同じです) ところが註釈者の曰く、釈迦像の光背の文は皇妃の....
「明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
だけでも正確なことは分らないのである。系図の初代津右衛門長女さだ、その下に記入の
歿年、慶長十八年七月二十日、という日附があって、はじめて全てが解明する。 日本....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
しいが、若光以前のことはともかく全然相わからん、ということである。そして若光王の
歿年も相わからない。 ただ長子家重が家をついだが、彼の死が天平二十年(西暦七四....
「子規居士と余」より 著者:高浜虚子
現が道灌山の出来事であったともいえるのである。更に一歩を進めて言えば、爾来居士の
歿年である明治三十五年までおよそ六年間の両者の間の交遊は寧ろその道灌山の出来事の....
「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」より 著者:森鴎外
それを万治寛文の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の
歿年から推せば、三回忌は慶安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌と....
「江戸芸術論」より 著者:永井荷風
安永元年また二年なりと断言せり。これは元より相応の論拠あるべしといへども、春信の
歿年は明和七年七月十七日なること、その同時代の人|蜀山人《しょくさんじん》の記録....
「明治演劇年表」より 著者:岡本綺堂
郎の与三郎を相手にお富を勤めたるほどの女形なりしが、晩年は旅廻りに寂しく終れり。
歿年は明らかならず。 ○春木座の新築落成して、七月十四日より開場。猿之助、訥子、....
「随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
力な確証でもなければ、これは断定できないことであろう。 第一、無二斎は、明確に
歿年は分らないが、武蔵が極めて幼少の時に、既に他界している。それからまた、大兄も....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
て、後に、岩手県|閉伊郡|田鎖の領主となった。そして文永四年の八十二歳まで生き、
歿年から逆算すると、生まれ年は、ちょうど、文治二年静が鎌倉へ召された年に当り、そ....
「春水と三馬」より 著者:桑木厳翼
其作者は序文によると臍斎主人|飯袋子といい、明和七年の出版となって居るから、三馬
歿年の文政四年を距ること正に五十二年である。赤本は文学史家の一斉に軽視する所であ....