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「歿後〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

歿後の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
路上」より 著者:芥川竜之介
けるまでには、一方《ひとかた》ならず野村の父の世話になっていると云う事、その父の歿後どこかから妾腹《しょうふく》の子と名乗る女が出て来て、一時は面倒な訴訟《そし....
玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
して感嘆の声をあげた。 あらためて註するまでもないが、源の俊顕《としあきら》の歿後は和歌の道もだんだん衰えてきたのを、再び昔の盛りにかえそうと努めたのは、この....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
に答えた。「その子分衆も此の頃は頼りにならないような人が多いので……」 先代の歿後三年のあいだに、古顔の子分が二人もつづけて死んだ。腕利きの子分二、三人は若い....
渾沌未分」より 著者:岡本かの子
ある。この誇りが父の畢世の理想でもあり、唯一の事業でもあった。そのため、父は母の歿後、後妻も貰わないで不自由を忍んで来たのであったが、蔭では田舎者と罵倒している....
三浦老人昔話」より 著者:岡本綺堂
余り遠いところではなかった筈であるが、今日ではまるで見当が付かなくなった。老人の歿後、わたしは滅多にこの辺へ足を向けたことがないので、こゝらの土地がいつの間にど....
中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
ったのである。 獄卒はやがて役を罷めて、ふところ手で一生を安楽に暮らした。その歿後、せがれは家産を守ることが出来ないで全部|蕩尽、そのときに初めてこの秘密を他....
中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
れには術があって、死んだ人の肖像を写生することが出来る。それを追写真といい、人の歿後数十年を経ても、ありのままの形容を写すのは容易であると説いたので、茘裳は彼に....
ファラデーの伝」より 著者:愛知敬一
〇三年にパリ。この後、ルムフォード伯は自宅に引っ込み勝ちで、ことにラグランヂュの歿後は、二、三の友人(ことにキュービエー)と交わっただけで、一八一四年八月二十一....
三人の師」より 著者:上村松園
えるという時にお訣れしなければならなかったことはまことに残念であった。 先生の歿後、門人たちは相談の末に楳嶺門四天王の塾へそれぞれ岐れることになったのである。....
画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
は、その頃、松年先生からいただいたものです。その後、幸野楳嶺先生に師事し、先生の歿後、竹内栖鳳先生を師といたしました。 一山のスケッチ帳 人物画は、....
二葉亭余談」より 著者:内田魯庵
|塗竄何十遍するも決して飽きなかった大苦辛を見て衷心嘆服せずにはいられなかった。歿後遺文を整理して偶然初度の原稿を検するに及んで、世間に発表した既成の製作と最始....
源之助の一生」より 著者:岡本綺堂
、源之助は三千歳を勤めた。これも初演は半四郎の役であった。こういうわけで、半四郎歿後の半四郎は自然に源之助と決められてしまった。沢村源之助は東京の劇壇に欠くべか....
淡島椿岳」より 著者:内田魯庵
下手で小汚なかったから、自然粗末に扱われて今日残ってるものは極めて稀である。椿岳歿後、下岡蓮杖が浅草絵の名を継いで泥画を描いていたが、蓮杖のは椿岳の真似をしたば....
二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
二葉亭の歿後、坪内、西本両氏と謀って故人の語学校時代の友人及び故人と多少の交誼ある文壇諸....
戦争史大観」より 著者:石原莞爾
の時代となれり。フリードリヒ大王は、この時代の用兵術発展の頂点をなす。 大王歿後三年にして起れるフランス革命は、傭兵より国民皆兵に変化せしめて戦術上に大変化....