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永徳
「永徳〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
永徳の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
たちはあの女にかどわかされたんでござります……」 「どこでさらわれた」 「浅草の
永徳寺でござります。あたしたちふたりとも、親なし子でござります。親なし子だから、....
「比叡」より 著者:横光利一
冷い部屋、畳は板のように緊って固く、天井は高かった。しかし、周囲の厚い金泥の襖は
永徳風の絢爛な花鳥で息苦しさを感じるほどであった。定雄は部屋の一隅に二枚に畳んで....
「元禄十三年」より 著者:林不忘
兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、狩野《かのう》法眼《ほうげん》
永徳《えいとく》あたりが、出ず入らずのところと――。」 そのとおりだった。
永徳....
「案内者」より 著者:寺田寅彦
みならず、他の同種のものに対しても無感覚になる恐れがある。たとえばよその寺で狩野
永徳の筆を見せられた時に「狩野
永徳の筆」という声が直ちにこの人の目をおおい隠して....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
家がござることを御承知でござろうな」
「すばらしい狩野家とは?」
「瑞巌寺には、
永徳と、山楽がありますね」
「あ、そうだ、そうだ」
その時に、白雲がまた興を呼....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
それからそれと、陸奥の旅までも突進させたのですが、もう一つの動力は、まさに「狩野
永徳」のさせる業でなければならぬ。 陸前の松島の観瀾亭《かんらんてい》に、伊達....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
浸淫に堕し候、よつて以上の見聞を終り候はば、一路直ちに松島に直行し、あこがれの古
永徳に見参し、それより海岸をわき目もふらず房州御膝下に帰趨《きすう》不可疑候。今....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
納めたいと思います」 「左様――あすこにはあれで、古法眼《こほうげん》もいれば、
永徳《えいとく》もいるはず。容斎《ようさい》、嵩谷《すうこく》、雪旦《せったん》....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
その家がよい足がかりとなったのみならず、かなりの仕事を与えられたのみならず、狩野
永徳を見んがために松島に行くという白雲の意気の盛んなるに感心し、 「なるほど――....
「血ぬられた懐刀」より 著者:国枝史郎
度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。 狩野
永徳の唐獅子の屏風、海北友松の牡丹絵の襖、定家俊成の肉筆色紙を張り交ぜにした黒檀....
「屏風祭」より 著者:上村松園
あがらせてもらい、屏風の前に坐りこんで縮図帖を拡げてうつさせていただくのである。
永徳とか、宗達とか、雪舟とか、芦雪だとか、元信だとか、あるいは大雅堂、応挙とか―....
「十六、七のころ」より 著者:永井荷風
受けていた医者は神田神保町《かんだじんぼうちょう》に暢春医院の札を出していた馬島
永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさい....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
月|後円融院が二条|為遠に撰集の勅命を下され、八月以後それに従事したが、六年後の
永徳元年(弘和元年)八月二十七日為遠は五十歳で世を去ったので、十一月になって為重....
「手仕事の日本」より 著者:柳宗悦
くのを誇りとしています。襟円の半襟、阿波屋の下駄、「さるや」の楊子、榛原の和紙、
永徳斎の人形、「なごや」の金物、平安堂の筆墨、こういう店々は東京の人たちには親し....
「黒田如水」より 著者:吉川英治
畳、控え三畳、等々たくさんな部屋数に仕切り、欄間や壁障はすべて総漆、襖には、狩野
永徳そのほか当代の巨匠が筆をそろえて鵞の間、芙蓉の間、墨梅の間、遠寺晩鐘の間など....