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永正
「永正〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
永正の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「赤外線男」より 著者:海野十三
様でございますから、お通夜も身内だけとし、今日の夕刻、先祖代々|伝わって居ります
永正寺の墓地へ持って参り葬ったのでございます」 「それから……」 「葬いもすみま....
「姉川合戦」より 著者:菊池寛
であった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将....
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
、諏訪、また小笠原氏、村上氏、木曽氏などとも兵を構えて甲斐武者の威を輝かせたが、
永正十七年飯田河原で遠州の大兵を破って以来、すっかり天狗の鼻を高め、暴戻の振る舞....
「魔法修行者」より 著者:幸田露伴
すめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我※が天下の権を取ろう、と一決した。
永正四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようは....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
て衆を乱した事歴史に見ゆとは何を指すのかちょっと分らぬが、『甲斐国妙法寺記』に、
永正三|丙寅《ひのえとら》、この年春は売買去年冬よりもなお高直《こうじき》なり。....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
その明応には九年六月にも甲斐の大地震があった。文亀になってその元年十二月越後に、
永正になってその七年八月に、摂津、河内、山城、大和に大地震があって、摂津には海嘯....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
に女を渡すつもりか。さあ、こちらを向かっしゃい、こちらを向いてこの刀、粗末ながら
永正《えいしょう》の祐定《すけさだ》を一見さっしゃい」 高部弥三次は、こういっ....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
飲ました。すると猫大いに力附いてついに一疋余さず平らげてしまったと記す。日本にも
永正元年武州に鼠多く出て、昼、孕み女を食い殺し、その処の時の食物を食い猫を鼠皆々....
「東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
に挾まっておったらしい。新大典侍の方からして北方の地を割《さ》いてくれとの交渉が
永正七年にあったのを見ると、どうしても地続きとしか思われぬ。西側が往来に面してい....
「丹下左膳」より 著者:林不忘
、世をしのぶ老士得印兼光なる主の物語というのは? はなしは、文明《ぶんめい》より
永正《えいしょう》にかけてのむかしにかえる。
火事装束五梃駕籠の頭首《とうし....
「南国太平記」より 著者:直木三十五
は、暫く、刀剣を見廻していたが、用人が、小さい帳面を、膝へ置いたのを見て
「その
永正祐定は、樺山」
用人は、頷いて、帳面へ印をつけ、刀に縛りつけた白紙へ、樺山....
「八犬伝談余」より 著者:内田魯庵
巻』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和の西鶴に起り、自笑・其磧、宝
永正徳に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
地の出身者に伝授が流れて行ったのは尤もな次第であった。 一方、宗祇が歿した後、
永正、大永から享禄・天文にかけての約三十数年に、猪苗代兼載・後柏原天皇・冷泉政為....
「「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
というたことについて、その「エタ」とは餌取の語の転訛であるとの事を書いてあるが、
永正の奥書ある写本には、その「エタ」というのは「何なる詞ぞ」という表題の下に、「....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
の第二子たる貫名次郎重忠の第四子が、すなわち祖師日蓮だと云っているのである。次に
永正二年に没した日澄の著だという「日蓮注画讃」(享保二十一年版)には、その貫名氏....