永禄[語句情報] »
永禄
「永禄〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
永禄の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「姉川合戦」より 著者:菊池寛
なるは浅井|雅楽助である。雅楽助の弟を斎宮助と云う。先年世良田合戦、御影寺合戦(
永禄三年)終って間もなく、浅井家の家中寄り合い、諸士の手柄話の噂などした。その時....
「川中島合戦」より 著者:菊池寛
於ける交戦は数回あったが、其の主なるものは、弘治元年七月十九日|犀川河畔の戦闘と
永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。他は云うに足りない。此の九月十日....
「桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
軍を勤めたかを簡単に示すならば、弘治三年四月には刈屋を攻め、七月|大府に向い、翌
永禄元年二月には、義元に叛き信長に通じた寺部城主鈴木|重教を攻め、同じく四月には....
「賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
勝家の推した信孝は、三男と云うことになっては居るが、実は次男なのだ。信雄信孝とは
永禄元年の同月に生れ、信孝の方が二十日余りも早かったのだが、信雄が信忠と母を同じ....
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
桜の花がサラサラと散り、その影をさえ埋めようとする。 こういうことのあったのは
永禄元年のことであるが、この夜買った紅巾の祟りで、土屋庄三郎の身の上には幾多の波....
「蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
が押寄せて来たぞ、酷《ひど》い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、
永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資....
「雪たたき」より 著者:幸田露伴
富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。
永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋臙脂屋が其|首であった。....
「決戦川中島 上杉謙信の巻」より 著者:坂口安吾
馬力にうたる
永禄四年七月三十日。余(上杉謙信)はひそかに春日山城を降り五智の海へ散歩にでた。....
「大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
を揮っていた。その頃金兵衛という商人があった。いわゆる今日のブローカーであった。
永禄四年の夏のことであったが、小諸の町へ出ようとして、四阿山の峠へ差しかかった。....
「郷介法師」より 著者:国枝史郎
然ぶつかったの恐怖の情がまざまざと現われていたのであった。 5 当時、すなわち
永禄の頃には、備前の国は三人の大名が各自三方に割居して、互いに勢いを揮っていた。....
「老狸伝」より 著者:佐藤垢石
に、城の狸が北条勢や武田勢を、向こうにまわして戦っている。 『石倉記』によると、
永禄十卯十年、上杉謙信は上州厩橋城に足を止めて、関東平定のことに軍略めぐらしてい....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
というのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の
永禄日記十年の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていた趣き....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
して世に知られ、宿とも唱門師とも呼ばれて、やはり濫僧の徒であった、高野山宝寿院蔵
永禄十年の奥書なる「貞観政要格式目」という変な名前の書には、坂の者すなわち三家者....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
有様であった。したがって坊主という語が段々濫用される事になり、今川氏真の如きは、
永禄四年にわざわざ令を発して、「諸末寺の塔主看院等、本寺に断らずして坊主と号し、....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
んだのではない。昨年の夏遠州平田寺に詣でて、同寺所蔵の古文書を拝見している中に、
永禄四年今川氏真署名の文書に、「諸末寺の塔主看院等、本寺に断らずして坊主と号し、....