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「治承〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

治承の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
俊寛」より 著者:芥川竜之介
間《あいだ》、御退屈でも御聞き下さい。 二 わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承《じしょう》三年五月の末、ある曇った午《ひる》過ぎです。これは琵琶法師も語る....
俊寛」より 著者:菊池寛
治承二年九月二十三日のことである。 もし、それが都であったならば、秋が更けて、....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
て来た。衣笠城を築き、この三浦半島を領していた三浦平太夫という人の名も出て来た。治承四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦|大介義明という人の名も出て来た....
十二支考」より 著者:南方熊楠
2 ラーマーヤナの譚をわが国で最も早く載せたは『宝物集《ほうぶつしゅう》』で治承の頃平康頼が筆すという。その略にいわく、昔釈迦如来|天竺《てんじく》の大国の....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
いるあたりの小さな二つの塚は、俚俗に首塚、胴塚ととなえられる二つの塚であります。治承《じしょう》四年の十月には、このあたりへ、源頼朝が召集した関八州の兵《つわも....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
奈良では東大寺の巨鐘が落ちた。山城、大和の強震は、その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって、東大寺に災してまた巨鐘を落した。 元暦二年七月の地震は「平....
剣侠」より 著者:国枝史郎
者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが....
間人考」より 著者:喜田貞吉
きて…… 中間法師常在といふあやし(賤)の者まで、形の如く連れたり。 山槐記治承三年六月廿二日条に、 水手称之、 平家物語に、 中間男が首にかけさせたる皮....
法然行伝」より 著者:中里介山
武蔵国の御家人、津戸三郎為守《つのとのさぶろうためもり》は、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国から走《は》せまいり、安房《あわ》の....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
だので、自分も『続詞花和歌集』を撰んだほどの人だが、勅撰の仰せを蒙ることなくて、治承元年に七十四歳で世を去った。彼は作家であるとともに、『奥儀抄』『袋草紙』『和....
無月物語」より 著者:久生十蘭
ぶん説明がつくのである。 そういった状況のうちに、この物語の本筋の事件の起きた治承元年になり、花世は十五、光麻呂は十一の春を迎えた。花世と光麻呂は、母親の面ざ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
の業と輪廻を共にするほかない。 都は広いと聞く。 かつての承久ノ乱や、寿永、治承の大戦のさいでも、都の北山、嵯峨野のおくには、平家のきずなや権門を遁れ出た無....
私本太平記」より 著者:吉川英治
守時は静かに笑む。いつもこのような人ではあるが、今朝も事なげな姿であった。 「治承の世にも、木曾殿(義仲)がそうでしたろ。頼朝公に質子を求められ、巴御前との仲....
私本太平記」より 著者:吉川英治
したら、建武新政の緒も根本からくつがえるものと、さまざま古例の吉凶なども案じて、治承四年、頼朝|追罰のさいに、三位|惟盛をつかわされたさいの仕きたりは不吉であっ....
親鸞聖人について」より 著者:吉川英治
うか、太政入道清盛も死んでいます。それから得度|剃髪九歳までの間に、年号は安元、治承、養和と変わっておりまして、この間に木曾義仲の乱入、やがて平家都落ち、壇の浦....