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法親王
「法親王〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
法親王の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「十二支考」より 著者:南方熊楠
》せて敵の軍馬を驚かし大勝したとある。 林宗甫の『和州旧跡幽考』五に超昇寺真如
法親王建、天正年中絶え果て今は形ばかりなる廬《いおり》に大日如来一躯あり云々、平....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
を流し続けた。幕府では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、
法親王および諸|僧正を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行、大目付、....
「不尽の高根」より 著者:小島烏水
したように、指が浅い巻き方をしている。瓦屋根の覆いを冠った朱塗の大鳥居には、良恕
法親王の筆と知られた、名高い「三国第一山」の額が架かってある。鳥居は六十一年目に....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
《りんのうじ》の宮《みや》に何か教えていた××安芸守《あきのかみ》という旗本で、
法親王が白河へお落ちになってから建白書のようなものを書いて死んだ人であり、身寄り....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
あった。 おばあさんの父親|安芸守《あきのかみ》は、白河で切腹したとき、上野の
法親王にはお咎《とが》めのないようにと建白書のようなものを書いたのだときいていた....
「法然行伝」より 著者:中里介山
うことが、人口に普《あまね》くなった上右の慶雅法橋が御室(鳥羽院第五の皇子|覚性
法親王《かくしょうほうしんのう》)の御前で、 「拙僧も自門他門多くの学生達《がく....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
宮大夫であった役名を冠したわけである。治承二年俊成六十五歳のとき、仁和寺宮|守覚
法親王の仰せによって自撰したもので今普通に流布している六家集本というのは、後の人....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
宮)のおん時、かぎりなく思されたりし御腹に、一ノ御子(尊良)女三ノ御子(瓊子)、
法親王(尊澄)など、あまたものし給ふ と、見える。 すでに女性の御経験もこれ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
は。 天皇の第三皇子で、嘉暦二年以来、叡山に入っておられる前ノ天台の座主、尊雲
法親王(大塔ノ宮)と、日野俊基であることをも明記していた。 「……察するに」 ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
の忠円の密使らしい者が、叡山の坂本にある山門の別当へ、 「なにとぞ、これを大塔ノ
法親王さまへ、お直々に」 と、一書を投じて去った事実がある。 それが誰だかわ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
の御子、尊澄(宗良親王)であった。すがすがと、痩せてお若く、和歌のおすきな、あの
法親王なのである。 叡山を降りて、数日、宮中にあるうちに、この騒ぎに出会ったも....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
せ」と罵り「ここをどこと思う。もったいなくも御連枝の宮、すなわち天台|座主の亮性
法親王のお住居なるを」と、その乱暴をたしなめた。 こう聞くと、道誉以下、武士ど....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
たようだ。いや義経の風采や言動を眼のまえにしていた当時の九条兼実とか仁和寺の守覚
法親王といったような時人までが、義経にはみな同情をよせていた。理由はいろいろある....
「山の人生」より 著者:柳田国男
、今では五鬼何という苗字の家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職を世襲し聖護院の
法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目としておりました。吉野の下市の町近くには....