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洛外
「洛外〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
洛外の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「邪宗門」より 著者:芥川竜之介
の百鬼夜行《ひゃっきやぎょう》に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中
洛外の大評判になりますと、若殿様は私《わたくし》に御向いになりまして、「鬼神《き....
「俊寛」より 著者:芥川竜之介
盲人が一人さまようているのは、世にも憐《あわ》れに見えるかも知れぬ。が、広い洛中
洛外《らくちゅうらくがい》、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、――有....
「玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
ろ》のような雨はその夜のふけるまで降り通したので、天の恵みをよろこぶ声ごえは洛中
洛外に溢れた。彼らは天の恵みを感謝すると共に、玉藻の徳の宏大無量を讃美した。彼ら....
「身投げ救助業」より 著者:菊池寛
争が烈しい。生活に堪えきれぬ不幸が襲ってくると、思いきって死ぬ者が多かった。洛中
洛外に激しい飢饉《ききん》などがあって、親兄弟に離れ、可愛い妻子を失うた者は世を....
「猿飛佐助」より 著者:織田作之助
あの字づくしに石川、二に忍術で、三で騒がす、四に白浪の、五右衛門と噂に高い、洛中
洛外かくれもなき天下の義賊、石川五右衛門とは俺のことだ」 と、名乗った。 が....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
実際に京都に戦争があったのは初期の三四年であったが、此の僅かの間の市街戦で、洛中
洛外の公卿門跡が悉く焼き払われて居るのである。『応仁記』等に依って見ると、如何に....
「死者の書」より 著者:折口信夫
と思うからである。 南家の郎女が、宮から召されることになるだろうと言う噂が、京・
洛外に広がったのも、其頃である。屋敷中の人々は、上近く事える人たちから、垣内の隅....
「郷介法師」より 著者:国枝史郎
は不自由しているよ」 「私の所へ来てはどうか?」 「今どこに住んでいるな?」 「
洛外嵯峨野だ。いい所だぞ。……ところでお主はどこにいるな?」 「私は雲水だ。宿は....
「藤十郎の恋」より 著者:菊池寛
なところで、若輩の七三郎に一足取残されようとしたのである。七三郎の巴之丞が、洛中
洛外の人気を唆って、弥生狂言をも、同じ芸題で打ち続けると云う噂を聞きながら、藤十....
「松園女史の思い出」より 著者:金子薫園
る。 それは大正二年四、五月の交である。私は京都に遊んで、ひらぎ屋に泊って洛中
洛外を巡覧した。御池通の松園女史を訪ねて女史に初めて逢ったのは、この時であった。....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
仏像が出来上ったところが、鳥羽法皇これを御覧になって、かくのごときの立派なものは
洛外に出してはならぬとお禁じになった。基衡非常にこれを憂い、七日間水漿を断って持....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
も京都付近では、非人の方が非常に多かった。正徳五年(今より二百四年前)の調べに、
洛外の非人の数八千五百六人に対して、穢多の数は僅かに二千六十四人しかありません。....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
ではない。「京都御役所向大概覚書」によるに、今を距る二百四年前の正徳五年調査の「
洛外穢多家数人数の事」という条に、 百八十八軒 七百八十九人 ....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
餌差らが取った運命を見ても察せられる。 「京都御役所向大概覚書」に、 洛中
洛外|餌指札之事 一、町餌さし三十四人 右前者人数不候由。 元禄拾六未年九月松平....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
には、「一種の巫祝祓祈祷方角占卜の事などを業とする者、土御門家支配と標を出せるが
洛外に見ゆるを、京都にては名目を失へり。近江にては之をショモジといふ」とある。 ....