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「清涼殿〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

清涼殿の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
ばれて、院の北面《ほくめん》を仕《つこ》うまつる武士であった。ある日のゆうぐれ、清涼殿のきざはしの下に一匹の狐があらわれたのを関白殿がごろうじて、あれ射止めよと....
源氏物語」より 著者:紫式部
心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐《あわ》れを多くお加えになって、清涼殿《せいりょうでん》に続いた後涼殿《こうりょうでん》に住んでいた更衣をほかへ....
源氏物語」より 著者:紫式部
間に思われるだけだったと恥ずかしくなり命婦はそっと去ってしまった。 翌日命婦が清涼殿に出ていると、その台盤所《だいばんどころ》を源氏がのぞいて、 「さあ返事だ....
源氏物語」より 著者:紫式部
いていると、典侍はそこの一室で琵琶《びわ》を上手《じょうず》に弾《ひ》いていた。清涼殿の音楽の御遊びの時、ほかは皆男の殿上役人の中へも加えられて琵琶の役をするほ....
源氏物語」より 著者:紫式部
現われてきた。三月十三日の雷雨の烈《はげ》しかった夜、帝《みかど》の御夢に先帝が清涼殿の階段《きざはし》の所へお立ちになって、非常に御機嫌《ごきげん》の悪い顔つ....
源氏物語」より 著者:紫式部
ちの控え座敷に臨時の玉座が作られて、北側、南側と分かれて判者が座についた。それは清涼殿《せいりょうでん》のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味....
源氏物語」より 著者:紫式部
ろうどのべん》であるお使いが源氏に伝えたお言葉である。源氏はかしこまって承った。清涼殿での音楽よりも、場所のおもしろさの多く加わったここの管絃楽に新来の人々は興....
謡曲と画題」より 著者:上村松園
家に帰り、その歌を万葉集の草紙の中へ読人不知として書き加え、何食わぬ顔をして翌日清涼殿の御歌合せの御会へのぞみました。 集まる人々には河内の躬恆、紀の貫之、右....
手長と足長」より 著者:喜田貞吉
人海東にありて、人手を垂るれば地に至る」とある。全く空想の国には相違ないが、我が清涼殿の荒海の障子には、これを絵に書いてある事が枕草子にも見えて、人口に膾炙して....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
用途をひろくもしたし重くもした。平安朝のはじめ、後宮のもてあそびであった歌合が、清涼殿の催しにまで昇格し、勅撰の歌集が編まれ、ことに漢字が男子の公に仕える教養で....
私本太平記」より 著者:吉川英治
「ともあれ、それに」 と、やや落着いて、夕べをさかいに、ひとまず諸卿は中殿(清涼殿)の昼ノ御座から西の渡殿を、休息のため、退がって行った。 やがて、お湯殿....
私本太平記」より 著者:吉川英治
いる。 ――ここ、あらゆる行事や行幸も見あわせられて、夜の御殿も、昼の御座も、清涼殿いったいは巨大な氷室と異らなかった。いまも、かすかな蔀明りを横に、帳台の側....
私本太平記」より 著者:吉川英治
らさらに幅の広い階段を七、八段ほどのぼっていた。 そこからは、いわゆる殿上で、清涼殿の南の廂にあたるところである。そして謂うところの鈴の綱は、廊の隅柱から校書....
私本太平記」より 著者:吉川英治
もとよりここは花山院の今内裏(仮の皇居)だが、天皇のおわすところ、どこでもそこを清涼殿と呼ぶのが慣わしなのである。で、左右の公卿列座もすべて清涼のかたちどおりで....
随筆 新平家」より 著者:吉川英治
平然と、仏毒の害や迷信の矇を知って、仏教一色の思想から超越していたところにある。清涼殿や各寺院などで、よく旱魃のために雨乞いをしたりするのを、彼は大いに笑ってい....