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清見
「清見〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
清見の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「佐橋甚五郎」より 著者:森鴎外
六日に将軍に謁見《えっけん》した。十四日に江戸を立って、十九日に興津《おきつ》の
清見寺《せいけんじ》に着いた。家康は翌二十日の午《うま》の刻に使を駿府の城に召《....
「門」より 著者:夏目漱石
の汽車で京都へ下《くだ》ろう、もし時間が許すなら、興津《おきつ》あたりで泊って、
清見寺《せいけんじ》や三保《みほ》の松原や、久能山《くのうざん》でも見ながら緩《....
「婦系図」より 著者:泉鏡花
尻も興津も直きそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、
清見寺も、三保の松原も近いんですから、」 富士の山と申す、天までとどく山を御目....
「疑問の金塊」より 著者:海野十三
た両眼をうるませた。 「満洲へゆくんだ。丁度幸い、今夜十一時に横浜を出る貨物船|
清見丸というのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから....
「島原の乱」より 著者:菊池寛
子|主水佐重矩である。父の弔合戦、父が討死の処に死のうとの血相|凄まじい有様を貞
清見て、貝を吹いて退軍を命じ、犬死を誡めて、切歯するのを無理に伴い帰った。全線に....
「小田原陣」より 著者:菊池寛
上途中に展ける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心を愉しませたらしい。
清見寺から三保の松原を眺めて、 諸人の立帰りつゝ見るとてや、関に向へる三保の松原....
「斬られたさに」より 著者:夢野久作
てハキハキと物云う小娘であった。 「……ここは茶室か……」 「ハイ。このあいだ、
清見寺の和尚様が見えました時に、主人が建てました」 平馬は床の間の掛物を振り返....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
なり。景清戦い負けて大日が所へ来る。大日|窃《ひそ》かに侍者を呼んで言いけるは景
清見参疲れたり、酒を買い来り飲ませよという。侍者走りて出で行くを景
清見て、我を源....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
・介・掾・目ともに通じていうが、ここは国守である。浄見埼は廬原郡の海岸で今の興津
清見寺あたりだといわれている。この歌の前に、「廬原の
清見が埼の三保の浦の寛けき見....
「興津弥五右衛門の遺書」より 著者:森鴎外
衛景通と申候。永正十一(十七)年|駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国|
清見が関に住居いたし候。永禄三年五月二十日今川殿|陣亡遊ばされ候時、景通も御供い....
「香魚の讃」より 著者:佐藤垢石
追われつしていたのは既に五月の末であった。六月末には八寸に育つ。 興津の名物は
清見寺と、坐漁荘、枇杷ばかりではない。興津川の鮎がある。古生層の緑色斑岩を主塊と....
「瘠我慢の説」より 著者:福沢諭吉
を美としてその死を憐《あわれ》まざるに非ず。今一証を示さんに、駿州《すんしゅう》
清見寺内《せいけんじない》に石碑《せきひ》あり、この碑は、前年幕府の軍艦|咸臨丸....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
夏衣うすくとのみや思ひわたらむ 山彦のこたふる山の時鳥ひと声ぞ聞く 胸は富士袖は
清見が関なれや烟も波もたたぬ日ぞなき 我が恋は蓋見かはれる玉櫛笥いかにすれども合....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
遊女から遊女の手へと、夜ごと引き継がれてゆくような旅だった。――ここから先にも、
清見潟、黄瀬川、足柄、大磯小磯、そして鎌倉口の仮粧坂まで、ほとんど道の辺の花を見....
「随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
をたたく。 慶長十年、播州姫路の三友寺に掛錫し、一詩を賦して寺を退き、後、駿河の
清見寺を訪ふ。又、備前の泰恩寺に到り、天長和尚の関捩を透破し、繋留久しからず花園....