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清輝
「清輝〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
清輝の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「野分」より 著者:夏目漱石
れはきまったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら
清輝館《せいきかん》の前に、大きな広告があって、わたしは吃驚《びっくり》させられ....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
するようになったのも不思議ではない。 当時、この国では初めて二隻の新艦を製し、
清輝、筑波と名づけ、明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取ったころで....
「油絵新技法」より 著者:小出楢重
していたかも知れないと思う。 ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田|
清輝氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、....
「回想録」より 著者:高村光太郎
先生は残らず駄目であった。何等の新知識もないし仕方がない。洋画科の方を見ると黒田
清輝先生のような人も居て進んで居るからというので、再入学して洋画科に入った。その....
「自作肖像漫談」より 著者:高村光太郎
君の首も作った。住友君のが一ばん良かった。 今美術学校と黒田記念館とにある黒田
清輝先生の胸像は二三年かかって其後つくった。これは黒田先生を学生時代によく見てい....
「美術学校時代」より 著者:高村光太郎
会などが人気があった。白馬会は当時既に相当の会員を擁しており久米桂一郎先生、黒田
清輝先生、藤島武二先生、長原孝太郎先生などと、これらの会の出来たことは急速に洋画....
「ヒウザン会とパンの会」より 著者:高村光太郎
崇拝の的はゴオガンとゴッホであった。先輩の中で、われわれの兎も角承認したのは黒田
清輝氏ただ一人である。 当時、山脇信徳が文展に出品した「上野駅の朝」と題する絵....
「緑色の太陽」より 著者:高村光太郎
って律しようとしているようである。春草氏の「落葉」がその一面を代表している。黒田
清輝氏の如きも、自らは、力めて日本化(?)しようと努力して居らるるらしい。そして....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
いますが、東京の十名は、日本画では、河合玉堂、小堀鞆音、下村観山、西洋画では黒田
清輝、彫刻では私と新海竹太郎、刀剣では宮本|包則、蒔絵では白山松哉、写真では小川....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
へ来て私のやっていることを見ただけで、自分で研究されたのです。それから氏には黒田
清輝氏、金子堅太郎氏など知名の人の援助もあって、製作するのに好都合であったらしく....
「淡島椿岳」より 著者:内田魯庵
も早くから椿岳を随喜した一人であった。ツイ昨年|易簀した洋画界の羅馬法王たる黒田
清輝や好事の聞え高い前の暹羅公使の松方正作の如きもまた早くから椿岳を蒐集していた....
「正宗谷崎両氏の批評に答う」より 著者:永井荷風
西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。その頃偶然|黒田
清輝《くろだきよてる》先生に逢ったことがあるが「君も今の中《うち》に早く写真をう....
「国境」より 著者:黒島伝治
ら助け肩にすがらしてはいってきた。 「大人、露西亜人にやられただ」 支那人の呉
清輝は、部屋の入口の天鵞絨のカーテンのかげから罪を犯した常習犯のように下卑た顔を....
「西航日録」より 著者:井上円了
また疑うべからざる事実なるがごとし。 カルカッタ滞在中は毎夕、明月天に懸かり、
清輝窓に入り、大いに客懐を慰するに足る。また一詠あり。 日の国の月にかはらぬ月な....
「南半球五万哩」より 著者:井上円了
) 濠洲のあらふる風にもみぢ葉も、まだ染めやらで先ぞちりける 当夕、また明月の
清輝を放つを望む。 十五日、晴れ。前日のごとく、秋期にもかかわらず春天駘蕩の趣....