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「瀬川〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

瀬川の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
或る女」より 著者:有島武郎
面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸の崕《がけ》の上から広瀬川《ひろせがわ》を越えて青葉山《あおばやま》をいちめんに見渡した仙台の景色がす....
或る女」より 著者:有島武郎
いた。 二人《ふたり》はいつか滑川《なめりがわ》の川口の所まで来着いていた。稲瀬川《いなせがわ》を渡る時、倉地は、横浜|埠頭《ふとう》で葉子にまつわる若者にし....
老妓抄」より 著者:岡本かの子
》の面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。綾瀬川の名物の合歓《ねむ》の木は少しばかり残り、対岸の蘆洲《あしず》の上に船大工だ....
東海道五十三次」より 著者:岡本かの子
が小暗くなる。そういうところへ来ると空気はひやりとして、右側に趨《はし》っている瀬川の音が急に音を高めて来る。何とも知れない鳥の声が、瀬戸物の破片を擦り合すよう....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
が、それがひとしきり済むと、老人は更に話し出した。 「あの佐倉宗吾の芝居は三代目瀬川|如皐《じょこう》の作で、嘉永四年、猿若町《さるわかまち》の中村座の八月興行....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
寺で、猿若《さるわか》の中村勘三郎代々の墓があるせいか、ここには市村羽左衛門とか瀬川菊之丞とかいったような名優の墓がたくさんありました。その隣りの最教寺は日蓮宗....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
いる。その偉い人の骨は瑞鳳殿というのに斂められている。さきごろの出水に頽された広瀬川の堤を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規....
密林荘事件」より 著者:海野十三
の朝のこと、僕たちは山荘を一緒に出て、羊腸の小径を湖岸へ抜け、そこで右へ行き、小瀬川を少し川上へ歩いたところで釣を始めました。ところが僕の針にはかなり獲物が引懸....
転機」より 著者:伊藤野枝
岸の村なのであるが、その渡良瀬の水源が足尾の銅山地方にあるので、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、沿岸の土地に非常な被害を及ぼした事がある。それが問題となって、....
映画と民族性」より 著者:伊丹万作
であつて、それがただちに文化の高低を意味するものではない。 かつて安田靱彦は黄瀬川の陣に相会する頼朝義経の像を画いて三代美術の精粋をうたわれたが、殊に図中頼朝....
註文帳」より 著者:泉鏡花
少し重みがあったんだがね。」 お若はちょいと頷いて、 「杉、」 「ええ、」 「瀬川さんの……ね、あれさ、」と呑込ませる。 「ええ、成程、貴下、それじゃあ、何で....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
に置かれることになってしまった。彼ばかりではない、狂言作者のうちで、かの三代目|瀬川如皐や三代目|桜田治助のごときも明治以後は一向に振わなくなった。所詮その芸風....
穂高岳槍ヶ岳縦走記」より 著者:鵜殿正雄
通った処、一番高大、その次は西北鷲羽に通ずる峰、次はこの峰を半里余行って東北、高瀬川の湯俣と水俣との間に鋸歯状をなして突き出している連峰、一等低小のが東に出て赤....
南半球五万哩」より 著者:井上円了
市三郎氏を訪い、杯をふくみ話を交ゆること約一時間にして、領事館に移り、総領事代理瀬川浅之進氏に面会す。五時乗船、驟雨ようやく晴る。領事館書記相原庫五郎氏の帰朝せ....
明治演劇年表」より 著者:岡本綺堂
、梅五郎の按摩丈賀など、いずれも無類の出来と賞讃せらる。 ○六月二十八日、三代目瀬川如皐死す、七十六歳。江戸末期には黙阿弥と対抗する著名の狂言作者にて、「佐倉宗....