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「烈公〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

烈公の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
本州横断 癇癪徒歩旅行」より 著者:押川春浪
る。時刻は既に遅かったので、有名な好文亭は外から一見したばかり。この好文亭は水戸烈公が一夜|忽然《こつぜん》として薨去《こうきょ》された処《ところ》で、その薨去....
仇討禁止令」より 著者:菊池寛
もござりませぬ。まして、御本家水戸殿においては、義公様以来、夙に尊王のお志深く、烈公様にも、いろいろ王事に尽されもしたことは、世間周知のことでござります。しかる....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
たところはなかったろう。彰考館の修史、弘道館の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家の一つと言われるほどの親....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組....
法窓夜話」より 著者:穂積陳重
に投ぜられて牢死したということである。 二〇 家康の鑑戒主義行刑法 水戸烈公の著「明訓一班抄」に拠《よ》れば、徳川家康は博奕《ばくえき》をもってすべての....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
「ドレ、見てやる」 壮士は、立ってその棒をさげて来た――これは力士小野川が水戸烈公の差図《さしず》により、次第によらば攘夷《じょうい》のさきがけのためとて、弟....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
しるもあれば尾張|贔屓《びいき》もあるらしい。 尾州|慶勝《よしかつ》が水戸の烈公と好く、多年の尊攘論者《そんじょうろんしゃ》であり、竹腰派の勢力は今は怖るる....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
と、首ととりかえせんじゃがなあ」 「そうじて泣く子と地頭にゃ勝たれんわな。水戸の烈公さんなんて、あれでなかなか強《ごう》の者《もの》でいらっしゃったるそうな」 ....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
実、家中は党を立てて血で血を洗っている。あの斉昭《なりあき》の行状を見るがいい、烈公が何だ――その血筋を引く一橋が本丸に乗込んだ。思い通り天下を乗取って水戸万歳....
嫉みの話」より 著者:折口信夫
、だんだん有識階級から退けられ、軽んぜられた例もたくさんある。 近世では、水戸烈公の話や、西鶴の『武道伝来記』にも書かれている。これは武士階級特有のものでなく....
南国太平記」より 著者:直木三十五
板へ響いて来た。 当節、世間で、恐いもの 安政地震に、神田火事 水戸の親爺(烈公)に俺が嬶《かか》 浪人、ころりに、鼠取り 人の女房を口説く時 女郎の手管に....
天狗外伝 斬られの仙太」より 著者:三好十郎
明けの明かりとも違う。もっと赤い) 加多 ……他の国の士のことは知らず水戸は義公烈公以来、東湖先生以下、農を以て国本とす、志有る士は百姓を忘れて存在しなかった。....
斬られの仙太」より 著者:三好十郎
明けの明りとも違う。もっと赤い) 加多 ……他の国の士のことは知らず、水戸は義公烈公以来、東湖先生以下、農を以て国本とす、志有る士は百姓を忘れて存在しなかった。....
随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
と言ったのは、つまりそんな関係のことらしい。 足利家へは、その後で、水戸家から烈公の十一番目の一子が養子に来て、これは落着いた。 しかし、国粋主義の水戸藩が....